萩本欽一(18)レギュラー番組

昼の生中継視聴率20%
黒山の人だかり失神者続出

1968年になると、テレビからも次々に出演依頼が舞い込むようになった。悲惨な思いばかりして「向いてないんだよな」と思っていたテレビの仕事だ。出始めのころはやっぱり相性が良くなかった。

NET(現テレビ朝日)系列で放送されていた人気番組「大正テレビ寄席」に出たときのことだ。渋谷の東急文化会館地下ホールからの中継だ。舞台にはスタンドマイクが1本、カメラも1台。床に白いテープで線が2本引いてある。線の外にはみ出すとカメラで撮れないし、音も拾えないという印だった。

初めは白線をはみ出さないように気を付けていた。でも調子が出ない。僕に背中を蹴飛ばされた二郎さんが白線の外に転がると、いつものコントになった。画面からふたりが消えたかと思うと、猛スピードで横切る。マイクが拾うのはドタドタという靴音とお客さんの笑い声だけ。

汗だくで控室に戻ると、二郎さんが「欽ちゃん」と脇腹を突く。「えっ?」「逃げよう!」「うん」。番組のスタッフに怒られる前にとんずらするのだ。ふたりとも逃げ足には自信がある。

廊下を全力疾走していると、「お~い、待ってくれ~」とディレクターが追ってくる。「やばい」と足を速めたものの、息を切らして追いついた彼は「ごめん、ごめん」と頭を下げる。

「君らの新しいスタイルのコントに対応できなかったのは僕たちが悪いんだ。やり方を考えるからまた出てよ」。次に行くと白線は消えていて、マイクが5本用意してあった。この立派なディレクターは山下武さんといって、あの柳家金語楼さんの息子さんだ。

しばらくしてアメリカからワイヤレスマイクが入ってきて普及し、テレビカメラも小型軽量になって、お笑い番組にも躍動感が出る。その進化に僕たちも及ばずながら貢献したんじゃないかな。

テレビで初めてのレギュラー番組は金曜の昼間、フジテレビが放映した「お笑いヤマト魂」。68年1月にスタートしたけれど、視聴率が上がらず3カ月で打ち切り。でも4月からフジで始まった「お昼のゴールデンショー」でコント55号の人気は爆発した。

月曜から金曜まで正午からの45分番組で、司会は前田武彦さん。前田さんの軽妙なさばきで僕たちは思う存分、躍動した。夏休みに入ると視聴率は20%に乗せた。

有楽町のビデオホールからの生中継に、朝暗いうちからお客さんが詰めかけ、あまりの熱気に失神する人が続出。ホールの定員は300人。入り切れない7000人がビルを取り巻き、ヘリコプターから撮った写真が新聞に大きく出たりした。

収録が終わって外に出ると、僕たちが乗った車の周りは分厚い人垣。ほとんどが若い女性で、「キャ~」という悲鳴が大群衆だと「ギャ~」と恐ろしくこだまする。

女の子たちがカーテンを閉めた窓や車のボディーをたたくので車体がへこんだ。やっと発進すると、今度は追っかけのタクシーの列。

「二郎さん、すさまじいね」「欽ちゃん、僕たちどうなるの?」。分刻みの過密スケジュールで仕事に駆け回る疾風怒濤の日々が始まった。

(コメディアン)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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