萩本欽一(14)劇団旗揚げ

テレビ生放送NG19回
意気消沈し解散浅草に戻る

高校時代に僕は喜劇人の本を2冊読んだ。エノケン(榎本健一)さんとチャップリンだ。エノケンさんは21歳で劇団を旗揚げしたと書いていて、「せめてマネだけでもしたいな」と思い始めていた。

修業を始めてまだ3年。やめるのはさすがに迷った。でもコメディアンの流出は止まらない。テレビに行った池信一さんに続いて、石田瑛二さんが東宝ミュージカルに去った。1963年春、僕は劇場をやめ、仲間を集めて浅草新喜劇をつくった。

「欽坊、浅草を忘れずにがんばれよ」と送り出してくれた東八郎さんも64年にトリオ・ザ・スカイラインを結成してテレビに飛び出していく。

劇団の団員は20人ほど。浅草を中心に劇場を借りて不定期に公演を打った。台本はほとんど僕が書いた。集団就職の若者たちの泣き笑いなどをテーマにした人情喜劇。食えないのでみんなアルバイトに精を出した。僕も団員たちとエーワンコミックスというグループをつくって営業にも駆け回った。

ある日、「キネマ旬報」に浅草新喜劇の劇評が出た。TBSディレクターの向井爽也さんがペンネームで書いてくれたのだ。楽屋を訪ねてくれた向井さんは「あなたテレビに出ませんか?」と言う。「やっとチャンスが巡ってきた」。僕は胸をときめかせた。

初出演の番組は向井さんが担当する公開コメディー番組「ジンタカ・パンチ!」。生番組だ。僕は森下仁丹の生コマーシャルに起用された。「うまくやれば運が開けるんだ」。勇む気持ちが力みになり、緊張を呼んだ。商品の名前が出てこない、やっと出てきたら間違える。スタッフから次々にいろんな助言が飛んできてパニック状態。NG19回。それっきり降板となった。

意気消沈した僕は劇団を解散して、それでもテレビ界の隅っこにしがみついて「仕出し」の仕事に明け暮れた。「その他大勢」のエキストラだ。この世界にも序列があって新参者はいじめられる。バスの乗客の役で衣装部に行くと、「そんな衣装ねえよ」とあしらわれたことがある。

番組のスタッフに顔を売って「ちゃん」で呼ばれるようにならないと台詞のある役は付かない。内気な僕はなかなか親しい人ができずに「萩本さん」と呼ばれていた。

ある局で精神科病院を舞台にした北杜夫さんの「楡家の人びと」をドラマにしたとき、いい役が来た。自分をベートーベンだと思い込んでいる青年の入院患者で、我ながら会心の演技だった。わくわくしながらテレビを見たら僕の場面はカットされていた。

「2歩下がって辛抱だ」と覚悟を決めていた。劇団を始めたころから、放送作家のはかま満緒先生の家にお邪魔していた。先生は優れたコントを生み出してテレビで引っ張りだこ。現場の空気に触れるだけで勉強になった。コントはスマートで都会的だった。

仕出しの日々が3年余り続いた。「テレビには向いてないのかなあ」。そう思うと舞台が恋しくなった。「浅草から出直そう」と決めた。

コメディアンに戻ってしばらくして、仲間に熱海の「つるやホテル」の余興の仕事を回してもらった。そこで考え付いたコントが「机」だった。

(コメディアン)

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