萩本欽一(9)修業時代

先輩の動き必死でまね
リズム感得るためドラム練習

研究生とはいっても、芝居やコントを研究するわけじゃない。次々わいてくる舞台周りの雑用をこなし、使い走りに駆け回る。無給だ。劇場がはねてから踊り子さんが繰り出すキャバレーの営業にかばん持ちでついて行き、小遣いをもらう。舞台袖で先輩たちの芸を必死で眺める。

東洋劇場は1959年6月に着工、11月にオープンした。1~3階が東洋劇場で4、5階がフランス座。若手女優の炎加世子を主役にした芝居が受け、よく入った。ところが3カ月後、炎が照明係の青年と駆け落ちして心中を図った。一命を取りとめた彼女は劇場を去り、客足はガクッと落ちた。松倉宇七さんの決断は早かった。ストリップをメーンに軽演劇とコントを織り交ぜるスタイルに替えたのだ。

僕が舞台に立てるようになったのはそのころ。コメディアンは10人ちょっと。浅草フランス座のエース、東八郎さん、池袋の座長の池信一さん、新宿のナンバーワン、石田暎二さん。松倉さんが集めた腕自慢の芸人たちがそのまま残った。

初舞台の中身は覚えていないけれど、短い芝居で台詞も2つ3つあった。あがり症が顔を出して、簡単な台詞が出てこなくて硬直していると、先輩が僕の頭をぽかっとたたいて「おまえの言いたいのはこういうことだろ」と助けてくれた。

「場数だな」「とにかく動け」。先輩たちはいろんな助言をしてくれる。だけど教科書なんかない。台本だって毎日アドリブで変わっていく。舞台でもまれ、先輩の動きや間、台詞回しを間近で見て、まねてみるしかない。

ある日、おばあさんの役がきた。「よ~し、笑いを取るぞ」と意気込んで、僕はピョ~ンと跳んで舞台に出た。笑いが来て得意げに引っ込むと、石田さんに首根っこをつかまれて4階に引っ張っていかれた。

石田さんは窓を開けると「欽坊、外に跳びながら歩いてる人がいるか?」と聞く。しばらく眺めた。いない。「いません」と答えると「跳んでるばあさんなんかいねえだよ、ばか」と怒られた。若いうちは余計なことをするな、基本に忠実にきちんとやれ。そういう教えだった。

踊りもだめだった。フィナーレで芸人たちも踊り子さんと踊るのだけれど、僕だけ流れに乗れずに客席から失笑を買うありさま。踊り子さんたちのレッスンに入れられると噴き出す人が続出した。「先生、この坊や、どうにかして。お稽古にならな~い」

「欽坊、おまえ、リズム感なさすぎ」と演出の先生に叱られて、とうとう舞台の踊りから外された。

もう独習しかない。アメリカの有名なジャズドラマーの教本でスティックだけで練習して、分からないと楽団のドラムの人に聞いてたたかせてもらった。やがて「欽坊、楽団で修業してみろよ」と言われた。でも踊りの方はなかなかうまくならない。

東洋劇場と一心同体のフランス座には佐山俊二、長門勇、渥美清、谷幹一、関敬六といった駆け出しの僕が「さま」でお呼びしたいコメディアンが腕を磨き、巣立っていった。

作家の井上ひさしさんも若いころ、浅草フランス座で台本を担当していて、著書でフランス座を「ストリップ界の東京大学」と書いている。僕は東大で学び始めた。

(コメディアン)

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