萩本欽一(8)東洋劇場へ

緑川先生の口添えで採用
主役は踊り子、合間に舞台

1960年3月、駒込高校の卒業式を終えるとすぐに、緑川士朗先生に連れられて浅草松竹演芸場の大宮デン助さんの楽屋を訪ねた。

デン助さんは3年前よりさらに人気者になっていて、楽屋は千客万来。人の列に気後れした。順番を待っている間に、緑川先生が「なあ欽坊、デン助さんがおまえのことを忘れてたら、何も言わずに帰ろうな」と言った。

人の列がだんだんにさばけて僕たちの番が近づいてきた。舞台衣装のままメークも落とさずに、にこやかに対応するデン助さんの姿がちらちら見えると、今度は強い不安が襲ってきた。「僕のことなんか覚えてるはずないよ」。そう確信した。

忘れられていたら世の中に出る門出でつまずき、運の悪い人生を送る羽目になるような気がした。「先生、僕、先生の劇場にお世話になります」。そう言っていた。

「それでいいのか?」「はい」。結局、デン助さんには会わずじまいで、松竹演芸場の3軒隣にある建物に連れて行かれた。ストリップ劇場のフランス座と東洋劇場が入っていた。

僕を従えて支配人室に入ると、先生は「この坊や、入れますよ」と言って、支配人と二言三言言葉を交わしただけで採用があっさり決まった。

コント55号で売れ始めたころ、デン助さんにお会いすると、弟子入り志願のたれ目の中学生を覚えていた。高校を出て、もう一度楽屋を訪ねたときのいきさつを話すと、「そうかい。俺は約束守る男だから弟子にしたよ」と言ったあと、「でもさ、欽ちゃん、俺の劇団に来なくてよかったよ。主役はずっと俺だし、ベテランも大勢いるから下積み長かったぞ」と笑っていた。

緑川先生は東洋劇場の演出家でストリップショーの合間の芝居やコントをつくる偉い人だ。主役はきれいな踊り子さんだけれど、劇場にはコメディアンもいる。「面白そうだな」と思った。

浅草公園六区街にあったフランス座は51年8月にオープンした。経営していたのは松倉宇七さん。松倉さんは47年8月、浅草で初めてのストリップ劇場のロック座を開業して大当たり。浅草、新宿、池袋にフランス座をつくり、どれもよく入った。

ロック座の集客作戦は見事なものだったらしい。

日本でのストリップ事始めは新宿帝都座の「額縁ショー」。上半身裸の女性が額縁に見立てた枠の中に立っているのを観客が固唾をのんで見つめる。つまり絵画鑑賞と同じで、女性が少しでも動くと警察が取り締まる。

ロック座は女性にお酒を飲ませた。ふらふらと動くのが色っぽいと話題騒然。お客さんがどっと押し寄せた。「酒好きの娘なんです。注意してるんですが」とかなんとか釈明して取り締まりを逃れたとか。

松倉さんは元演劇青年で自ら脚本も書いた。軽演劇専門の劇場をつくるのが夢で、フランス座のビルを5階建てにして、新しい劇場をつくることにした。それが東洋劇場だ。主演女優を置き、3つのフランス座から腕っこきのコメディアンを集めた。

僕が入ったのは60年4月で東洋劇場の完成は前年の11月。まず研究生という名の雑用係をすることになった。

(コメディアン)

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