萩本欽一(2)両親の記憶

何不自由なく、すくすく
事業家の父、賢く気丈な母

1941年5月7日に東京市下谷区稲荷町で生まれた。今の住所でいうと台東区東上野3丁目。浅草寺の雷門まで歩いて30分くらい。下谷神社が近いから浅草っ子というより下谷っ子。どっちにしろ東京の下町の生まれだ。

僕が生まれた年の12月8日に太平洋戦争が始まって、4歳のときに疎開の意味もあって埼玉の浦和に一家で引っ越したから、幼いころの稲荷町の記憶はほとんどない。

おやじの萩本団治は香川県小豆島のまんじゅう屋の三男坊で、小学校を終えると大阪で薬問屋に奉公したあと、株の仲買店などで働いていたが、父親に島に呼び戻され、地元出身のおふくろ、トミと結ばれて夫婦で東京に出てきた。

僕は6人兄弟姉妹の5番目、三男だ。長兄の功は14歳上。上の姉の玲子をはさんで9歳上の次兄、安是、下の姉の圭子の次が僕で本名も欽一。ふたつ下の弟、悦久が末っ子。

東京に出てきて商店に勤めていたおやじは、やがて稲荷町の長屋でカメラの店を始める。長屋といっても持ち家だ。僕が生まれたころからカメラ業はどんどん大きくなったようだ。

戦争がひどくなって、疎開で東京を離れるカメラ店の店主から次々に店を買い取ったという。事業欲が旺盛だったわけではなく、人のいいおやじはむしろ店の処分に困った店主を助けるつもりだったとか。戦争が終わるころには稲荷町から銀座まで7つの店を営み、製造も始めた。団治の名にちなんで「ダンカメラ」の商標でそこそこの人気を博した。

「おまえたちの母さんはな、日本にまだ3人しかいなかったころのタイピストだったんだぞ」。おやじはおふくろのことをよく自慢した。女子高等師範学校を出て、まだ珍しかったBG(ビジネス・ガール)をしていたそうだ。優しくて気丈な人だった。

なんだか釣り合わない父と母だが、結婚にはこんな顛末があった。別の女性と見合いするためにおやじは相手方の家に出向いた。ところが、どういうわけか留守だった。

うろうろしているおやじに事情を聞いた隣の家のおかみさんが「うちでお茶でも飲みながらお待ちなさい」と言ってくれたので上がり込み、その家の箱入り娘に一目ぼれ。粘って射止めたという。それがおふくろなのだ。

浦和の家はとても大きくて広い庭があった。お手伝いのお姉さんもいて、僕は「欽一おぼっちゃま」と呼ばれていた。

おふくろは教育熱心だけれど、ガリ勉を強いることはなかった。近所の市立高砂小学校に入ると、僕は成績もお行儀もいい優等生だった。僕の人生でごく短かった「良い子」の時代だ。

おふくろは成績をあんまり褒めてくれない。テストでクラスで一番をとって喜び勇んで報告すると、「勉強は大事だけど、勉強ばかりして一番になってもだめなの。友達と遊びなさい」と言われた。

厳しかったのは字の練習。ちょっとでも雑に書くと手をぴしっとたたかれた。「字は人様に読んでいただくんだから、丁寧に書きなさい」と怖い顔で叱られた。

そういう両親のもとで幸せな子ども時代を過ごした。

(コメディアン)

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