萩本欽一(31)えっ、最終回?

「身内」の支えで貫く現役
73歳、新たな企画挑戦続く

うわっ、最終回。まだ書きたいことがあるけれど、これで打ち止め。読んでいただいてありがとうございます。

まず両親のこと。おふくろは2008年にあの世に旅立った。101歳まで生きてくれた。とうとうでっかい家は建ててあげられなかった。でも気丈に穏やかに天寿を全うした。おやじは1973年、72歳で逝った。羽振りのいい時期は短かった。自分のペースで生き抜いた。晩年、小遣いを渡すと、いそいそと競馬場に通った。最後まで大当たりには縁がなかったようだ。

澄子さんと僕は3人の息子に恵まれた。75年に生まれた長男の一童に続いて78年に越史ができた。80年に誕生した三男は難産でぐったりして生まれ、苦労を征服するようにと征九郎と名付けた。3人とも元気に大きくなった。

一童は浪人中、「大学を出て銀行に勤めたい」と言うので、僕は「大学行って無駄だったな、と思うような仕事しなよ」と助言した。しばらくすると「俺、大学行かないで弁当屋で働くよ」。「それ、最高だね」と僕は褒めた。弁当屋さんで汗をかきながら人間や社会を見るんだ。

「なんでそうなるの!!」と澄子さんはあきれ返った。「あんたの影響で3人ともわけのわかんない人生送ってるじゃないの!」と怒ってる。越史は勤め先で「萩本君、あなた、ひょっとして欽ちゃんの息子か?」と聞かれると辞めちゃう。征九郎は「どの国で働くのがいいのか」を見きわめるためにアルバイトで金を貯めて世界のあちこちで働いては帰ってくる。

越史が最近、会社をつくった。日本で働くのが一番と悟ったらしい征九郎が手伝うという。一童は弁当屋さんをやめて新しい道を模索している。「自分の力で夢をつかみ取れよ」とエールを送っているけれど、内心では「もうしばらく辛抱しろよな」と思っている。おやじの僕がまだまだ運を使うので、おまえたちにはなかなか運が向かないぞ。

「身内」でもうひとり、佐藤宏榮に感謝しなくちゃいけない。僕が浅井企画から71年に独立して萩本企画をつくったときからのマネジャーで、85年に佐藤企画を立ち上げた。3つの芸能プロダクションは一心同体。ばりばりテレビでがんばってたころ、僕はテレビ局のスタッフと直談判で番組を企画、制作した。自分の責任でいい番組をこしらえる決め手だった。この「欽ちゃん方式」をずっと陰で支えてくれたのが佐藤だ。

体の切れも落ちてきたし、舞台も打ち止めかな、と考えて今年3月、明治座で1カ月やった座長公演「ほめんなほれんなとめんな」は「THE LAST」と銘打った。

でも、これからも現役でやりますよ。僕がつくった放送作家集団、パジャマ党の大岩賞介、詩村博史、大学を出てから弟子入りしてきた君塚良一、パジャマ党の弟分、サラダ党の鶴間政行、益子強……。放送作家や脚本家として活躍する彼らの有志が定期的に集まって「73歳の大将(僕のこと)をどう生かして番組をつくるか」を相談中。うれしいです。

実は近々、久々に僕の企画が動き出す。この連載を読んでくださったみなさんに打ち明けたいのはやまやまだけど、まだ教えないよ~。

(コメディアン)

=おわり

萩本欽一(30)二郎さん逝く

2人の舞台心の金字塔
ありがとうと消えぬ寂しさ

コント55号で二郎さんとやったコント、懐かしいなあ。

たとえば「結婚コンサルタント」。二郎さんが結婚相談所にやって来て、担当者の僕がいろんな豪華メニューを紹介する。披露宴の料理もフルコースだ。二郎さんは「きんぴらごぼうは出ますか?」とかなんとかせこい質問を連発。

僕が「豪華船から飛行機で新婚旅行に行きましょう」と持ちかけると、二郎さんは両手を広げ「ブ~ン」と飛行機が飛ぶまねをする。「いきなり飛ぶな!」と叱りつけて、管制官に連絡しろと命じる。

二郎さんが「飛びます、飛びます」と報告して飛ばそうとするんだけれど、僕がいちいち難癖をつけてやり直させる。二郎さんは舞台を駆け回って汗だく。最後は疲れ果てて「飛びます」が言えなくなって「とひやす、とひやす」と言いながら気を失う。二郎さんがうまいから笑える。

出世作の「机」「マラソン」「帽子屋」……。ふたりが体当たりで演じた初期の映像は残っていない。お客さんを笑わせたい、有名になりたい、お金を稼ぎたいと目の色を変えて動き回ってた僕たちの心の金字塔だよね、二郎さん。

坂上二郎さんは2011年3月10日に逝っちゃった。享年76。脳梗塞だった。翌日、東日本大震災が起きた。

悪いと聞いて栃木県の病院を見舞ったとき、「二郎さん、死んじゃいやだよ。僕の葬式誰が出すのよ」と言った。「欽ちゃんの葬式は僕が出すからね」が口癖だった。二郎さんは「大丈夫。僕が出すよ」とにやっと笑った。

ふたりで舞台に立とうと決めたあの日、二郎さんは「欽ちゃんの好きなようにやりなよ。ついて行く」と言った。でも僕が頼りにしてたのは二郎さん。芸人魂は僕なんかよりずっとすごかった。

コント55号が人気絶頂のころ、紅白歌合戦に呼ばれた。4分と言われていた持ち時間が番組の進行とともに減っていき、出番直前に1分になった。気が小さい僕は1分で律義に引っ込んだ。でも二郎さんがなかなか戻ってこない。引っ込む途中で2度も派手に転んで大受けに受けていた。

「二郎さん、怒られるよ」。舞台袖に帰ってきた二郎さんに言うと、「家に帰ったら時間通り『ゆく年くる年』が始まるよ」と平然としていた。

芸の力と根性で映画、舞台、テレビで活躍した。人情味あふれる性格俳優として評価され、少年の日の夢をかなえて歌もヒットさせたよね。

コント55号は活動は休んでいたけど解散したわけじゃない。一緒に時々、テレビや舞台に出た。「二郎さん、きょうは『マラソン』やろうよ」「ほいきた」。打ち合わせなんかしなくても息はいつもぴったりだった。

東京の明治座でも何度か二郎さんと共演した。あるとき、二郎さんが楽屋でしみじみと「僕さ、心の底から笑えたのは欽ちゃんと一緒にやってたときだけだった」と言った。それを聞いて僕もしみじみした。

そのあと、ゴンドラに並んで座って舞台に降りながら二郎さんが「僕にコント書いてよ」と言うので、「そのうちね」と答えると「ケチ!!」。書けばよかったな。

二郎さんの死でコント55号は45年間の活動を終えた。二郎さん、ありがとう。僕、今でも寂しいよ。

(コメディアン)

萩本欽一(29)充電宣言

頂上到達 戸惑い大きく
予備校や後進育成 挑戦が夢に

週に3本のレギュラー番組「欽ドン」「欽どこ」「週刊欽曜日」がどれも視聴率30%を超え、足し算すると100%に達して、僕はテレビ界で「視聴率100%男」の異名をもらった。

光栄だなあ、と思う一方で、次の目標が見えなくなった。偉そうに言うと「エベレストの頂上に登っちゃった」感じ。僕の才能じゃあ視聴率40%の番組をつくるのは無理だ。第一、疲れた。「これダメ」「こういうの僕いやだ」って主張することもあった僕が「そうだね、それでいいよ」と物わかりが良くなった。「勤続疲労」のせいだろう。

1981年5月に不惑の40歳を過ぎたころから惑いが大きくなった。名峰を征服した登山家は頂上に長くいないで下りてくる。登るまでの挑戦は苦しく楽しい。でも到達すると、さっさと下山するしかない。僕は思った。「パラシュートで一気に下りたいな」

「休もう」。テレビからいったん消えて充電するんだ。「どうかしてますよ」と言われたけれど、「2歩下がって、これからを考えるんだ」と思って気にならなかった。85年3月のことだった。

唯一の例外が日本テレビの「欽ちゃんの仮装大賞」。「萩本さん、番組の主役は僕じゃなくて参加する人たちだって言ってましたよね」とプロデューサーに説得された。

暇になって始めたのが予備校通い。大人の言葉と常識を身につけたかった。新宿の予備校の夏季講習に通い出すと「生徒の気が散るんです」と言われ、日本史と英語の先生に家に来てもらった。

個人授業はつまらなかったので先生につっこみを入れた。「三分の一ぐらい面白い話を入れてよ」。ふたりは知恵を絞って話がだんだん面白くなって授業に身が入った。

参考書にも注文をつけた。重要なことが欄外の注に載ってたりするので「僕みたいな生徒向けに大事なことだけ書いた参考書つくって」とお願いすると日本史の先生がつくってくれた。自習もがんばって入試問題に挑んだ。そこそこの水準の文系私大に受かる学力はついたかなと思う。

半年間の充電期間中、いろんなことを考え、試みた。新しいことに挑戦する。それが新たな夢になった。

「出る」から「つくる」「つくりながら出る」へ。そして「育てる」。テレビに復帰しても模索を続けた。代表が野球。2005年1月創部の社会人野球の新球団「茨城ゴールデンゴールズ」は3月、日本野球連盟に加盟承認された。

さまざまな制約を相談しながら乗り越えた。試合中に僕がマイクパフォーマンスをして話題を集めた。本格的にテレビでやろうと考えていた。でも2006年7月、所属選手が暴行事件を起こして、チームは存続したものの、結局、僕は監督を退いた。

話は前後するけれど、1998年2月22日、長野冬季オリンピック閉会式の総合司会も思い出深い。手順も台詞も決まっていて最後に僕が「選手のみなさん、ありがとう」と言う段取りだった。僕は会場のみんなにアドリブで呼びかけて「ありがとう」の大合唱になった。

翌日、長兄の功から電話があって「母さんがね、欽一が立派になったって泣いてたよ」と言う。おふくろは僕の番組を見るたびに「欽一が笑われてる」とご機嫌斜めだった。やっと母親孝行ができたんだ。

(コメディアン)

萩本欽一(28)東八郎さん

師匠で兄貴で恩人
急逝 忘れ形見の息子 立派に誓う

1988年7月6日、東八郎さんが逝ってしまった。脳出血で突然倒れた。急逝だった。まだ52歳。僕の師匠で兄貴で恩人だった。あまりのショックに茫然自失。思いっ切り泣いたのは、お葬式が済んでからだ。

浅草の東洋劇場でコメディアン修業を始めたころ、東さんに厳しく優しく指導された。「欽坊、基本だぞ。基本、基本」。駆け出しのころ、繰り返し言って、へたなアドリブを戒めた。

舞台でだんだん場数を踏むと、東さんの動きや台詞の間、呼吸を必死で盗んだ。一緒に舞台に立っていると予想もしない方向から東さんに頭をはたかれる。「ぼけっとしてるんじゃないよ」という警告だ。「腕の立つコメディアンの視野って360度なんだ」と実感した。

僕のトレードマーク、前を向いて横走りする「欽ちゃん走り」はもともと東さんの芸だ。舞台での足の運びはほとんど東さんから盗んだ。

「欽坊、よその劇場でやるときな、楽屋で着物の帯を前で結んでから後ろに回す芸人がいたら舞台で遠慮なくつっこみ入れて、つぶしてもいいぞ」。へぼなコメディアンの証拠なんだ、と東さんに教わった。だから帯は後ろ手で結べ、という教えでもある。そういう芸人のイロハもたくさん伝授してくれた。

浅草生まれの東さんは中学を出ると、浅草で絶大な人気を博していたオペラ歌手、田谷力三さんに入門、浅草フランス座に転じ、オープンと同時に東洋劇場に来た。僕より5歳上なだけ。フランス座でホープ、東洋劇場ではエースと言われ、周囲の期待を背負って活躍した。

ストリップが斜陽になって、トリオ漫才ブームに乗ってトリオ・ザ・スカイラインを結成してテレビに進出。解散後もテレビや舞台で味のある芸風で笑いを提供し続けた。

「萩本欽一は俺が育てたんだ」。芸能界でよく聞く、そんな言葉を一切口にしないどころか、先輩風も吹かせなかった。僕がフジテレビの「オールスター家族対抗歌合戦」の司会をしているとき、東さんが出てくれた。5人の子持ち。子煩悩なお父さんだった。

本番前、昔の口調に戻って「欽坊、俺がぼけるから、つっこめよ」「はい」。打ち合わせは10秒でおしまい。本番で東さんが出てくると、ほのぼのとした楽しさが漂った。中学生だった次男の貴博がぶすっとしてるので、からかうと「こら欽坊、子どもにつっこみ入れるな!」と僕にしか聞こえない声で叱った。

亡くなる少し前に笑芸人育成の私塾を開いていた。軽演劇の振興にかける思いはひと一倍だった。でも修業の厳しさが身にしみているのか、子どもたちを芸能界に入れようとはしなかった。

ところが、東さんの亡骸の前で18歳の貴博が「僕、コメディアンになります」と言った。すぐそばにいた僕は胸がいっぱいになって、「貴博、最短コースでいいコメディアンにしてやるからな」と心に誓った。

僕が所属する浅井企画に入れた。まずは舞台。栃木県日光市の江戸村に頼んで僕が台本を書いてひとりでやらせた。そのあと、僕がつくった「欽塾」で鍛え、同僚の深沢邦之とお笑いコンビ「Take2」を結成、ブレークした。東さん、あの世で喜んでるだろうなあ。

(コメディアン)

萩本欽一(27)人気番組連発

ドラマ枠に笑いで挑む
超多忙、軒並み視聴率30%超

結婚発表を済ませて「さあ、仕事がんばるぞ」と気合を入れ直した1976年夏、知り合いのNET(現テレビ朝日)のプロデューサー、皇(すめらぎ)達也さんが世田谷の我が家にやって来た。「上司に言われてね。でも仲が良くても頼めないことってあるよなあ」と言って帰ろうとする。

胸の内を察して僕は「やるなら夜9時台のバラエティーかな」と言った。皇さんは「了解取るよ」と元気良く帰って行った。「欽ちゃんのどこまでやるの!?」は76年10月、そんないきさつで始まった。

水曜日の夜9時から。ドラマの時間帯で僕にとってレギュラー番組で初めての挑戦。「ドラマの要素を入れないとスポンサーが付かない」との局の要望で、番組スタッフやパジャマ党と知恵を絞った。

茶の間のセットをメーンにして僕がお父さん役でお母さん役は女優の真屋順子さん。長男の見栄晴、のぞみ、かなえ、たまえの3姉妹、それにゲストやいろんな登場人物がおりなすホームバラエティー。夜9時台は各局とも強力な看板番組を並べている。でも「欽どこ」は出だしから快調ですぐに視聴率は30%を超えた。

86年9月まで続いた、この番組でもステキな出会いがいっぱいあった。

解散したキャンディーズのスーちゃん(田中好子さん)が、ミキちゃん(藤村美樹さん)と自宅を訪ねて来たのは80年の春先。難病と闘う弟さんがスーちゃんの芸能界復帰を待ち望んでいるという。彼女は迷っていた。僕は言った。「芸能界でもう一回、1等賞をとって弟さんを喜ばせてあげなよ」。その年の5月に復帰宣言、初めてのテレビ出演が「欽どこ」だった。

いい女優になったよね。90年に「黒い雨」で映画の賞を総なめにしたとき、トロフィーを見せに来てくれた。「ほんとに1等賞とったんだね」と言ったら、涙を流しながらにっこりした。スーちゃん、逝っちゃったなあ。

82年、ケガから復帰した歌手の細川たかし君が久々に出演した番組が「欽どこ」。ゲストなのに早々とやって来て「あ~、テレビっていいな」としみじみと言った。感動した僕が「来週、予定空いてる?」と聞くと「ず~と空いてます」と言うので準レギュラーになってもらった。

歌謡教室の先生役で突然来てコミカルな動きを織り交ぜながら、あの美声で歌うのだけれど、僕が途中でストップをかける。「最後まで聴かせて」という声が番組に殺到した。それが「北酒場」。その年のレコード大賞を取った。

ここで訂正。前川清君とのコンビはコント54号でした。

「欽ドン」「欽どこ」で多忙。そこへTBSから番組の依頼をいただいたがお断りした。さすがに中身に自信が持てなかった。でもプロデューサーの増井昭太郎さんが食い下がった。「約束守ってください!」

増井さんと「55号決定版」をやったとき、「ドラマのTBSでゴールデンタイムにお笑いをやりたいんです。出てもらえますよね?」と頼まれて「出るよ」と約束していた。

金曜午後9時からの「欽ちゃんの週刊欽曜日」は82年10月、こうして始まった。悪戦苦闘したあげくにひねり出した「欽ちゃんバンド」が当たって、視聴率はなんとか30%に届いた。

(コメディアン)

萩本欽一(26)結婚発表

嫁は澄子さん思い貫く
姿消した「お姉さん」八方探す

「欽ちゃんのドンとやってみよう!」ではいろんな出演者が番組に活気と元気を与えてくれた。仲間意識も強かった。中でも前川清君とは気が合って今でも仲良しだ。内山田洋とクール・ファイブのリードボーカルでヒット曲を連発。歌がうまいクールな二枚目として人気があった。

自称スターの僕と違って、ほんとのスターだけど、飾らない人柄でユーモラス。番組の中でコント56号をつくって僕がつっこむと、実にうまくぼける。日本テレビの「スター誕生!」で歌手さんにアドリブ質問をぶつけてマネジャーに怒鳴られたので「前川君、事務所に怒られない?」と聞くと「大丈夫です」。

僕を大将と呼んだ。「大将、お宅に遊びに行っていいですか?」と言うので「だ~め」と断った。前川君は「冷たいなあ」と残念がった。

断ったわけは僕があのお姉さん、澄子さんと暮らしていたから。僕がいる浅井企画社長の浅井良二さんとか何人かしか知らない秘密だった。でも前川君は僕の留守に突然やって来て澄子さんとおしゃべりして帰ったとか。人見知りの彼女も「いい人ねえ」とファンになっちゃった。

澄子さんとやっと一緒になれた。コメディアン見習いを始めた18歳のときから「欽坊、有名になりなよ」といつも応援してくれた。「若くてきれいな子にしなよ」と結婚を拒み続けた。コント55号で僕がテレビに飛び出していくと姿を消してしまった。

八方手を尽くして何とか見つけ出した澄子さんは「あんた、ほんとに有名になったんだね。よかったね」と喜んでくれた。でもプロポーズには、やっぱり首を振った。「有名人の妻にはなりたくないのよ」と彼女は言った。

僕はもう絶対に離さないと決めていた。売れっ子になると女性にもてる。週刊誌に女性スキャンダルを書き立てられたこともある。ウソばっかりじゃなかった。だけど嫁さんは澄子さん。その思いはずっと変わらなかった。

恩ある人だからだけじゃない。澄子さんを思うと心が温かくなるんだ。

ようやく結ばれて、1975年12月2日に長男、一童が生まれた。でも澄子さんのことも一童のことも世間に公表しなかった。派手なことを嫌がる彼女の意向もあったし、発表のタイミングを逸してもいた。「今ごろ公表したらバッシングを受けるよな」という心配もあった。

一方で「ファンの人たちをあざむき続けている」との自責の念が強まった。親しい記者に相談すると「欽ちゃん、NHKの記者クラブで会見すればいい」と言う。76年7月、意を決して会見に臨んだ。僕は35歳。まず新聞記者の人たちに「僕、結婚してました」と話した。意地悪な質問は出なかった。

テレビや週刊誌の会見まで間がある。外の空気が吸いたくてエレベーターに乗って、そこで会った記者さんに「非難されると思ってました」と話すと「欽ちゃんの結婚は芸能記者はみんな知ってたよ。僕たちは一生懸命な人をいじめたりしないんだ」と言った。

会見は無事終わった。「映像がほしい」と言われたので、「最初で最後だよ」と澄子さんを説得、神奈川県の辻堂海岸で親子3人で撮影してもらった。

(コメディアン)

萩本欽一(25)ドリフと対決

日本初、芸人の冠番組
「お化け番組」僅差で上回る

予定を切り上げて帰国した常田久仁子さんに張り倒されると覚悟した。恩人の常田さんに無断で日本テレビに「欽ドン」の話を持って行くなんて「裏切り者」と怒られてもしょうがない。自分の番組をつくるんだと焦って義理を欠いたよなぁ。

まだ独り立ちしたばかりで実績がない萩本欽一の番組をやるために、常田さんがフジテレビの局内調整にどれほど汗をかいたのか。今ごろ反省しても遅い。

でも、さすがは僕の「おっかさん」。説教抜きで力強く言った。「欽ちゃん、『欽ドン』、うちでやろうね」。目頭が熱くなった。僕もパジャマ党の面々も奮い立った。

もちろん、すぐに実現したわけではない。常田さんは社内で粘り強く調整を重ねてくれていた。僕はいろんな番組で力を蓄え、パジャマ党はラジオで腕を磨いた。そして「欽ちゃんのドンとやってみよう!」は1975年春にスタートすることが決まった。

初めて「欽ちゃん」がタイトルに付いた、待望のレギュラー番組。僕の思いを汲んで常田さんは最初は「欽ドン」の前に「萩本欽一ショー」と付けてくれていた。おっかさん、優しいなあ。でも、やっぱりくどいので番組の名前は「欽ドン」だけになったけれど、日本でコメディアンの名前を冠したレギュラー番組は初めてと聞いた。

さあ恩知らずが恩返しするときがきた。ところが、放送日が正式に決まって、僕たちは少しひるんだ。4月5日、土曜日午後8時。裏番組にすごい強敵がいた。ザ・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」。視聴率がコンスタントに30%を超える「お化け番組」だ。

「かなうわけないよ」。口には出さないものの、内心そう思った。せめて10%を超えてほしいと思っていた初回の視聴率は17%を超えた。「いけるぞ」。僕もパジャマ党も「『全員集合』と勝負できるぞ」とファイトがわいた。

焦りは禁物。時間をかけて追い上げるんだ。「欽ドン」の命は視聴者の投稿はがき。回を追うごとに笑えるギャグが増えてきた。初めのうちは男子高校生を中心に番組で紹介して、大学生や若いサラリーマンにもだんだんと幅を広げていった。

実は新鮮で面白いギャグは中学生や小学生に多かった。けれど、読まずにためておいて3カ月ほどして集中的に紹介し始めた。「おっ、小学生だ。この子すごいよ。バカ受け!!」。この戦略が大当たりして、子どもの世界から番組の人気に火が付いて視聴率がぐんと上がった。

小、中学生を手始めに主婦、お年寄りなどあらゆる年代にターゲットを広げて3年がかりで「全員集合」に追い付き、追い越そうと考えていた。その目標は放送開始の半年後に達成した。視聴率は30%を超えて、ついに「全員集合」を上回った。その差はわずかに0.5%。そのあともつばぜり合いが続いた。でも「欽ドン」は快調を維持して走り続けた。

どんどん新しいコーナーができて番組を引っ張った。例えば「良い子悪い子普通の子」。パジャマ党の発案だ。場数を踏んだ放送作家なら「普通の子」なんかつくらずに「間抜けな子」かなんかを登場させるはず。パジャマ党の連中のアマチュア精神が視聴者に受け入れられたのだろう。

(コメディアン)

萩本欽一(24)石の上にも5年

欽ドン、ラジオ発テレビ
視聴者の投稿傑作ぞろい

僕がつくった放送作家予備軍「パジャマ党」の精鋭4人はみんなユニークだった。一番年長の大岩賞介は僕がかつてお世話になったはかま満緒先生の紹介で来た。男気あふれるナイスガイだ。あとの3人は全員日大生。

日大闘争のとき、鈴木しゅんじはヘルメットをかぶってバリケードの中にいて、体制側の詩村博史は大学の要請でバリケードの解除に突撃した。永井準はノンポリ。大学がロックアウト中、それぞれテレビ局でアルバイトしていた。

鈴木と詩村の論争が過熱すると、永井が「冷静に話し合おうよ」と仲裁するのだけれど、最後は庭で永井も巻き込んでとっくみあいになる。

4人の日常は辛抱と忍耐。何しろ何も教えてくれないのだから。僕が帰ってくるとマージャンか将棋。当然、うまくなる。「あっ、おまえ、スターからハネマン上がりやがった」っていう具合で、僕はどんどん負けがこんだ。負けた分は現金で払う。賭けマージャンじゃない。全員に借用書を書かせた。無給だから、それが小遣い。でも借金を返した奴は誰もいない。

「我慢しろよ。我慢が運を呼び込むんだ」と僕は口に出さずに思っていた。焦らずに何かが熟してくるのを待つんだ。僕は「石の上にも5年」と考えていた。4人は早い奴で半年、遅くて4年で僕の家を出て「通い」になった。みんなほんとによく堪えた。放送作家のイロハは知らない。でも、みんなの中に個性ある果実が育ち、発酵し始めているはずだった。

5年たった1972年、僕は動き出した。4人を連れてニッポン放送に行って番組づくりをお願いした。「この連中、台本書けません。一から指導してください」と頼んだ。「僕は出演するだけ。口は一切出しません」

こうして4月から始まったのが「どちら様も欽ちゃんです」。この番組で僕が大好きになった投稿コーナーが独立して、10月に新番組「欽ちゃんのドンといってみよう」がスタートした。聴取者からギャグ会話を書いたはがきを募集して、僕が読む。プロの放送マンなら絶対にやらないような素人っぽい趣向だ。でも傑作が多くてすごく面白い。

「これ、テレビでも受けるよね」。パジャマ党の面々と話しているうちに「やろう」と決めた。でも投稿はがきでつくるテレビ番組の話なんかに乗ってくる局があるはずない。

こういうときに頼りになるのがフジテレビプロデューサーの常田久仁子さん。「1時間の特番をつくるのにいくらかかりますか?」と尋ねてみた。常田さんはきちんと調べてくれた。スタジオの使用料やスタッフの人件費などで600万円。

「生意気ですけど、僕がお金出すのでフジでつくってもらえませんか」。ラジオの投稿コーナーを「欽ちゃん」の名前を付けてやりたい、と話すと、常田さんは「お金いいわよ、うちでやってあげる」。うれしかった。「欽ちゃんのドンと行ってみよう!ドバドバ60分!!」は74年9月に放送された。視聴率は1桁だったけど手応えはあった。

「次はレギュラー番組だ」と日本テレビに掛け合っているさなか、休暇で海外にいた常田さんから電話があった。「あんた、『欽ドン』を他局に持ってったって?恩知らず!!裏切り者!!」。すごい剣幕だった。

(コメディアン)

萩本欽一(23)パジャマ党

若者集めてコント集団
体力検査で選抜 何も教えず

二郎さんも僕もテレビを中心に駆け回っていた。たくさんの番組を夢中でこなし、「欽ちゃん」のイメージは定着した。でも全速力で走りながら考え続けていた。「このまんまでいいのかな?」

「アメリカでコメディアンになりたいんです」と打ち明けた相手は日本テレビのプロデューサー、井原高忠さん。僕が尊敬するテレビマンだ。コント55号が売れ出したころ、あこがれた番組は1965年に始まった「九ちゃん!」。主演は坂本九さんでディレクターが井原さん。

歌とコントで織りなす、おしゃれなバラエティー。「ああいう番組がつくれたらな」と思った。小心者ほど時に大胆な所業に出る。日テレに電話して、よく知らない井原さんにつないでもらった。

「井原です」「あの~、萩本欽一と申します」「おっ、欽ちゃん。何だい?」。気さくな口調に勇気を得て「あんなすごい番組、どうやってつくってるんですか?」と聞くと、「千鳥ケ淵のフェアモントホテルに来なよ」と言う。

ホテルでは井原さんと放送作家の人たちが番組の構成やコントを考えていた。井上ひさしさん、中原弓彦(小林信彦)さん、山崎忠昭さん、城悠輔さん、河野洋さん……。超豪華メンバーだ。こういう才能が知恵をしぼって「九ちゃん!」をつくってるんだ。びっくりした。

そんなことがあって、悩みや迷いがあると井原さんのところに行くようになった。アメリカ行きの話をすると、井原さんは「欽ちゃん、向こうで誰かに呼ばれてるの?」と聞くので首を振った。第一、英語が全然しゃべれない。

「アメリカのショービジネスは厳しいぞ。コメディアンだって世界中から集まって競争してる。メジャーになるには骨が折れるよ」。現地の事情に詳しい井原さんは率直に言ってから「日本のテレビで欽ちゃんにしかつくれない番組をつくるんだ。がんばればできるよ」と励ましてくれた。

「欽ちゃんの名前が付いた、いい番組をつくろう」とファイトがわいてきた。超多忙ですぐには動けないけど「焦るな」と自分を戒めた。2歩下がってじっくりやろう。そう考えて立ち上げたのが「パジャマ党」。

若者を集めてコントを考える放送作家集団とコメディアン集団をつくるのだ。テレビ局の知り合いに「頭が良くて頑丈な若い奴を紹介して」と頼んだら大勢来た。世田谷の僕の自宅にパジャマ持参で集合させて合宿に入った。

まずは体力検査。僕と居候の車だん吉が夜中に1時間おきにたたき起こす。3、4日過ぎるとコメディアン志望の連中が脱落。結局、4人の放送作家志望が残った。

会社員あがりの大岩賞介、詩村博史、永井準、鈴木しゅんじが大学生。最初はスターは偉いと教え込んだ。見本は売れまくってる僕。「スターのラーメンはチャーシューだらけ」と言うと、4人は自分のチャーシューを泣く泣く僕の丼に移す。

そんなことを繰り返すうち、彼らは僕に向かって「スターがいれたコーヒーが飲みたいな」なんて言い出す。スターなんか普通の人だと気づけばいいのだ。

コントのつくり方や台本の書き方は一切教えず、テレビ局にも連れて行かない。「欽ちゃんの笑い」を覚えてもしょうがない。新しい笑いをつくってくれ、と思っていた。

(コメディアン)

萩本欽一(22)スター誕生!

話題の歌手続々と生む
人傷つけるギャグなし誓う

いろんな人に「スタ誕(スター誕生!)の欽ちゃんは伸び伸びやってたね」と言われるけれど、ヤケになって好き勝手にやってただけ。「いつ降ろされてもいいや」と腹をくくっていた。

日曜日の午前11時に始まる、画期的な新人歌手発掘のオーディション番組。その司会がコメディアン。人選に違和感を持つ出演者が多かったようだ。僕だってなんだか場違いだなと思っていた。

テレビの世界ではコメディアンの地位はまだ低くて、歌手の方がずっと格が上。ゲストの歌手さんたちは見上げるような存在だった。

番組中、ゲストに打ち合わせにない質問をすると、あとでマネジャーに「よけいなこと聞くんじゃねえよ」とすごい剣幕で怒られる。よほどの大物でないかぎり、歌手が面白いことをしゃべったりするカルチャーはそのころの芸能界にはなかった。

僕は歌手さんと一緒に控室にいるのに気後れがして、化粧道具を持って廊下でメークしていた。

スタ誕は歌手を目指す若者の夢をかなえるステキな舞台であると同時に、夢を打ち砕く残酷な場でもある。才能だけじゃなくて運もツキも試される。僕自身の中学、高校の頃と重ね合わせて、落ちてしまった若者たちに「これからの長い人生で夢の続きはあるんだよ」と声をかけたいけれど、湿っぽいのはいけない。

合格者がいないとき、僕は「バンザ~イ!!無しよ」と叫んだ。過酷な舞台だからこそ、明るく和やかにと思って学芸会やゲーム大会みたいなコーナーもつくった。でも有名な作詞家や作曲家や歌の先生たちが居並ぶ審査員の何人かに不興を買ったらしい。

場違いな僕がクビにならずに続けられたのは番組の実力のおかげ。話題の新人歌手が次々に羽ばたいていき、番組の注目度はぐんぐん上がった。大勢のスター誕生の場に立ち会ったけれど、すごい子はドラマを置いていく。

秋田の予選に顔を出したとき、控室に白いベレー帽の少女がいた。全身からオーラを発散していた。「この子、絶対スターになるよ」と僕は断言した。桜田淳子ちゃんだ。

スタ誕からの歌手第1号は森昌子ちゃん。「せんせい」でデビューした彼女を僕は「先生」と呼ぶ。歌手になって初めてゲストで来てくれたとき、短い髪の彼女に「束子みたいな髪だね」と冗談を言っちゃったら、昌子ちゃんは黙ったまま固まった。

まだ中学生の女の子が悲しそうな顔をするのは当たり前。僕は人を傷付けるギャグはこれから一切言わないと誓った。だから昌子ちゃんは先生なのだ。

僕の司会は1980年4月まで続いた。最後の443回、オーディションのあと、番組の中でお別れ会をしてくれて、歌手になった卒業生がたくさん集まった。僕はみんなに「ごめんね」と謝った。

別の番組で会っても僕は卒業生に話しかけなかった。卒業生じゃない歌手の子に悪いから。「欽ちゃんって冷たいって思ったよね、ごめんね」

収録が終わるとディレクターが飛んで来て「クールな(山口)百恵ちゃんが泣いてました」と教えてくれた。それを聞いて胸が熱くなった。

(コメディアン)