井深大(9)東通工設立

記念すべき本格製品第1号

技術者の集まりである東京通信研究所は大海に乗り出した小舟のようなものであった。私たちは技術だけをたよりに新製品の開発に全力を注いだ。
コンバーターについで手がけたのが電気炊飯器である。当時戦争が終わって軍需工場が一挙に閉鎖したので一時電力があまるという奇現象が現われた。この余剰電力を使ってめしをたくことを考えたわけだ。いま流行の電気がまの元祖みたいなようなものである。

この商品を大々的に売り出そうとして、太万川君が白米をヤミで、つんと仕入れてきて、白木屋の3階でめしたきばかりやっていた。従業員は実験に使った白米のめしが食えるので、さつまいもの弁当の厄介にならずにすんだ。ただ残念ながらうまくたけたことは一度もなく、この電気炊飯器はソニーの失敗第1号の商品となった。

こうして技術の商品化計画には失敗したが、盛田君が言っているように「そのころ、研究所へ行くとお昼は白米のご飯を出してくれた。太万川さんのウデで、あの当時お米を手に入れて、毎日全員にご飯をたべさせてくれたのはたいした功績ですよ。」という功徳もあった。

樋口君や安田君など若い者は住む家もなく、当初は白木屋の3階の工場の一隅にふとんを持ち込んで泊まり込みで研究に若い精魂を注ぎ込んだ。電気炊飯器と同時に研究を始めた真空管電圧計の方は、過去の研究成果をも織り込んで着々商品化計画が進んだ。この製品は安田順一君が戦争中に手がけたもので、資材集めにはずいぶん苦労したが、製品は予想外に早く完成した。

当時の資材不足は全くわれわれにとって苦労の種だった。真空管一つ手に入れるのに、一日中焼け跡のヤミ市や進駐軍の払い下げ品などを捜してやっと手に入れるありさまであった。こうして苦労に苦労を重ねたあげく、やっとできあがったのが木製黒塗りの桐箱の真空管電圧計であった。ネジを締めると柔らかい桐の木箱のこととて、すぐ割れてしまうといういまから考えるとおそまつな品物だったが、できあがったときの喜びはたいへんなものだった。ソニーの記念すべき本格製品の第1号はこうして完成したのである。

この製品は当時の逓信院(いまの郵政省)に納入することができた。ついで鉄道省(いまの運輸省)にも毎日のように日参してやっと楽音音響機(カーボンマイクと機械振動片とを組み合わせた発振器)の発注を受けることに成功した。

真空管電圧計で大量注文

昭和20年12月には短波ラジオ用コンバーターの本格的製造販売を始め、21年2月には逓信院資材局からPA-2真空管電圧計100台の大量注文を受けた。官庁需要はふえる一方だった。だから個人企業では資本の面でも従業員採用でも支障を生ずるようになり、21年5月に資本金19万円で東京通信工業を設立した。

5月7日にぼうず頭に国民服という戦時色の抜け切っていない30人の人たちが集まって創立式を聞いた。初代社長は戦時中知事だったことで自動的に大政翼賛会の地方支部長だったことが原因で文部大臣をパージになった前田多門、専務には私、常務に盛田昭夫、取締役に太刀川正三郎、樋口晃、相談役に田島道治の諸氏がそれぞれ就任した。

会社設立に当たってはなにかと相談にのってくれていた前田社長の親友田島道治氏が細かい心配をしてくれた。当時の帝国銀行頭取の万代順四郎氏との関係ができたのも、田島氏のお世話によるところが大きかった。

その前に盛田君は東京工大の講師をやり、自分の生家の家業である300年の伝統ある醸造業のめんどうをみなければならない立場にあった。だが、われわれにとって幸いにも盛田君は海軍軍人(志願による)だったことで工大講師の方がパージになり、家業の方はわれわれが盛岡君の父君に頭を下げて身柄をもらい受けることに成功した。これがうまくいっていなかったら今日のソニーは生まれていなかったことと思う。

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