井深大(8)終戦

長野県須坂に疎開

サイパン、テニアンも占領され、不沈空母による本土空襲は定期便化していた。トラックが毎日のように京浜地帯から列をつくって山梨や長野に工場疎開の荷を積んで引っ越しを始めたのはそのころである。日本測定器工場もこの列にまじって長野県須坂の製糸工場に疎開した。

工場の拡充や疎開などに要した資金は満洲重工業の三保幹太郎氏から出資してもらった。須坂工場は約7万平方メートル(2万坪)のりんご園を持つ製糸工場を改造したものであるが、この時の資本金は250万円になっていた。資本金の大部分は三保氏の満洲投資証券が持っていた。

信州へは東京月島工場の工員の大部分をつれて行き、元女工員の宿舎に入れたり、農家のあき間をあちこちで借りて工員を住まわせたが、地元の採用者を含めて800名という大世帯になった。ここでは空襲もなく、加えて食糧事情もよかったので生産意欲はぐんぐん上がった。

このころのおもしろい製品は得意の音叉を使った秘密通話装置で、普通の電話機にこれをつけると途中で盗聴しても何を話しているかわからず、受ける側で同じ装置をつけると普通の話に復元するもので、関東軍などでずいぶん使われ、スパイ防止に役立ったようである。

そのころ軽井沢にいた義父前田多門は近衛文麿氏といろいろ話し合いをしていたので戦局の動向もわりにはっきりしていた。そのうえ商売柄ご法度の短波受信機を用いては米軍の放送も聞いていたので、日本の敗戦は決定的なものであることを知っていた。
このころ盛田君も須坂までたずねてきたことがある。彼も敗戦を見越し、戦争には見切りをつけていた。熱線探知機も翼を失った日本にはムダであった。ふたりで戦後のことなどを話し合ったこともあった。

昭和20年8月15日。勝つための研究もすべてムダに終わった。敗戦。それは日本が2600年の長い歴史の中で初めて経験した厳粛な事実であった。私には予期したことではあったが現実の敗戦となったときはショックだった。

仲間とともに東京ヘ、「東通研」で再スタート

日本測定器をどうするか。古ぼけた重役室で会議を重ねた。専務の小林恵吾君たちは「そうあくせくしなくてもいいではないか。この疎開工場には7万平方メートルのりんご園もある。生活だけはどうにかなるから世の中が落ち着いてから東京に出ていったっておそくはないだろう」と残留派であった。私は東京に出るのは早い方がいいと思ったので太万川正三郎君を東京に派遣して東京進出の下工作を始めた。

そのころ日産の管理下にあった日本橋白木屋の3階の一室を借りることに成功した。東京で新しく仕事を始めるために同行したのは太万川、樋口晃、安田順一、河野仁、中津留要、山内宣、黒髪定の諸君で、いまもソニーで要職についている人たちである。その中で河野君だけはその後会社をやめ共産党にはいり、いまはソニーの下請け工場を経営している。

私ども8人のものが小林君とたもとをわかって上京したのは9月のことであった。そして「東京通信研究所」の看板を白木屋の3階の一角に立てたものの、なにから手をつけたらいいのか正直なところ無我夢中であった。あれこれ考えているうちに月末になった。収入らしい収入はない。私は預金を引き出して給料を払った。たけのこ生活をしながらつくりあげたのが短波も聞けるコンバーターである。
この第1号の製品ができたとき、朝日新聞の嘉治隆一氏が「青鉛筆」に紹介してくれた。この記事がのったのが20年10月6日号である。

「▽・・・一般家庭に現在ある受信機でも一寸手を加へれば簡単に短波放送を受信出来るといふこれは耳よりな話・・・」(原文のまま)から始まって、くわしく内容が書いであった。この記事が掲載されたその日のうちに、新聞で見たというお客が列をつくったほどである。

この記事を見てさっそく愛知県の実家に戻っていた盛田君から連絡があった。お互いに気にかけながらも連絡の方法がなかったふたりが、新聞記事が縁で再び交際を始めることができるようになった。

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Bubbles of river disappear rapidly.

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