井深大(5)社会人第一歩

請われてPCL入社

私の社会人としての出発はPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所)に入社したときから始まる。PCLに入社するようになったのはケルセルに関する特許を出したとき、清水という親切な審査官がいてPCLで君のような人をほしがっているからといって、当時所長をやっていた植村泰二氏(経団連副会長植村甲午郎氏の弟)のところへ引っ張っていってくれたからである。

PCLは日活など各映画会社のトーキーの下請けをする研究所だった。日本のトーキーの黎明期で、活弁時代も終わりをつげようというときだけに、とにかく録音をなんとか解決しなければならなかった。植村氏は私のケルセルの研究を高く評価して「責任を持たせてなんでもやらせるから早くこい」という矢のような催促をよこした。

私はPCLにはいる前に東芝の入社試験を受けろといわれたので受けたがみごとに落ちてしまった。学校時代にかたよった勉強をした結果が現われたというほかない。
第1志望の東芝に入社できないとすれば、自分の才能を思う存分いかして活躍できるところの方がいいと思ってPCLにはいることに踏み切ったのであった。

PCLの仕事は私には確かにうってつけであった。光を音に変え、あるいは音を光に変え、それをまた音に変えるという録音技術に興味を持っていたからである。
PCLに入社するとき、植村所長は「月給60円はどんなことがあっても保証する」という条件を出した。当時60円は帝大卒並みである。それならということで昭和8年4月からPCL社員としてサラリーマンの第一歩を踏み出した。

約束と違う初月給に文句

4月の末に生まれて初めての月給をもらった。自分が1カ月間働いて得た汗の結品であると思うとうれしかった。
だがはずむ心で給料袋の封を切ってみて、がっかりした。植村所長があれだけ堅い約束をしてくれたにもかかわらず、中身は50円だったからである。私は多少むかっ腹が立ったので、翌朝早く植村所長の私宅をたずねて「約束が違うじゃありませんか。給料袋には50円しかはいっていません」と一言って給料明細書を所長に見せた。植村氏は少しもあわてず落ち着いた口調で「そんな小さいことでこせこせするな」と軽く受け流した。この時の植村氏の態度は実に立派だった。

このことがあって以来、植村所長の前に行くとどうも気まずい思いをした。軽率だった自分がいやになった。心の重い日が続いた。ところが、翌月分の給料袋をあけてホッとした。本給60円也となっている。植村所長が軽く受け流したことばの中にも真実があったのである。そう思うとそれまでの暗い気持ちはどこかへふっ飛んでしまった。

その後、毎月のように給料が5円ずつぐらい上がり、入社した年の12月には本給90円の高給取りになっていた。当時は満州事変後で金の価値がだんだんなくなりかけていたが、それでも90円という金は使いでのある金であった。私の機械欲を満足させてくれたのもこの月給であった。

12月にはもう一人前の技術者として、毎週増谷邸で聞かれる技術会議に列席することを許されるようになった。横河電機技師長の多田潔氏(故人)、PCL技師長の増谷麟氏(現ソニー監査役)らの大物が顔を並べていた。その中へ新米の私を加えた植村所長や増谷技師長の思いやりはたいへんなものであったといえよう。たしかに毎週聞かれたPCLの技術会議はいろいろな意味で参考になった。経験の多い大先輩の話を聞くことは人間的にも教えられるところが大きかった。

PCLでは本職の録音の研究もやったが、前述のネオンを作ってパリの博覧会に出品するなどかなり勝手なこともいろいろやった。日本のためになる仕事なら、直接会社の事業とは関係のない研究でも大目に見てくれた。
私利私欲のためにすることはよくないが、新しい技術の発見は国家的にもプラスであり、人類の進歩のためにも不可欠の要件である。植村氏がそうした深いものの見方ができる人であったことは私にとってきわめて幸いであった。ネオンがパリの博覧会で賞を得たときは植村所長が私の手をとって心の底から喜んでくれたことが強く印象に残っている。

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Bubbles of river disappear rapidly.

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