井深大(4)早大時代

陸上対抗に拡声装置

神戸一中の4年生の成績はアマ無線にあまりに凝りすぎたため、とことんまで落ちた。こんな調子だから、かなりの人たちが4年生から高等学校にパスして学窓を去っていったのに、私にはとてもその望みはなかった。これではいかんと思ったので、5年生のときはピッタリと無線をやめてしまった。成績も上がったので、浦和高校と北大予科を受けたが色弱のため官立の高等学校は受からなかった。
そして早稲田大学の第一高等学院に入学した。その時いまのソニー常務の島茂雄君がいた。科学部にはいり、委員になった。島君に従っていろいろ工夫して科学部を大いに盛り立てた。電蓄がまだ珍しがられるころで、島君と増幅器を組み立て、スピーカーを借りてきて、レコード・コンサートを開くなどして学友に大いに喜ばれた。

理工学部長の山本忠興教授は当時陸上競技に関係していたが、ちょうど私が先生の長男と幼稚園時代の友だちだったので、先生から「井深、井深」といってかわいがられた。山本先生のやっている陸上競技で対抗試合があるときは増幅器やラッパ、マイクロホンなど拡声装置に必要な道具一式をそろえて巡業して歩いた。当時は神宮でさえも拡声装置の設備はなかった。

第一学院はのんびりしており、自分の好きな機械いじりをしてのびのびと生活できた。このころの同好の士には西山栄蔵君(フジテレビ技術局長)、新川浩君(国際電電公社研究所次長)、すでに故人となった村瀬一雄君らがいた。

私が学生時代を通じてほんとうに実のある勉強をしたのは理工学部のときである。
当時主任教授であった堤秀夫先生の指導でケルセルの研究をした。この研究は光を音とか、外から加えた電圧の通りに変調する研究だが、この実験でネオン管に高周波の電流を通して周波数を変えてやると、光がはでに伸び縮みすることを偶然の機会に発見した。この時発見した原則を応用してつくったネオンを大学を卒業して後にパリの博覧会に送ったところ、優秀発明として賞を受けた。

このころ新潮社と早稲田の問、2.8キロぐらいのところで光電話の実験もやった。これはケルセルの光変調を応用したもので、当時としては画期的なものとしてかなりマスコミなどから注目された。
私の大学時代はちょうどテレビの研究が始まったばかりのころで、浜松高工の高柳健次郎教授(現ピクター常務)がブラウン管で、早稲田の山本忠興教授、川原田教授らがケルセルを使って大きな鏡を回してやるといった程度の草創期であった。

クリスチャンの努力も

話は前後するが、第一学院の3年生のとき、親類の人にすすめられて富士見町教会へ行き出した。山本先生の感化もあってクリスチャンとして正義感に燃えていたのだろう。日曜学校の先生などをしたり、クリスチャンとして一生懸命努力したものである。

早稲田大学の学生からなっている友愛学舎というキリスト教関係の寄宿舎にはいったのもそのころである。ここでの生活は非常におもしろかった。ベニンホフさんという古くから日本に来ていた米国の宣教師が舎監をしていたが、万事米国式で信仰の行事も甘かった。
そこでいま西荻窪で本屋を経営している原田君らが中心になってベニンホフ先生に「もっと信仰をほんものにせよ」と要求を出してあばれ回ったこともある。そのころ同じ寄宿舎で学んだ仲間にはあとでいっしょに仕事をした小林恵吾(コッス測定器社長)、迫田俊郎(ソニーケミカル専務)の両君らがいた。

私が大学にはいったころには、父が残した井深家の財産も底をついていた。父のいとこにあたる函館の海産物問屋の太万川善吉氏が毎月50円ずつ送金してくれた。ソニー企業社長の太万川正三郎君は善吉氏の三男である。

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