井深大(3)中学時代

「無線」に凝り勉強せず

小学校5年の3学期に、いつまでもいなかにいてはいかんというので、母の再婚先である神戸に行き、諏訪山小学校にはいった。この学校は神戸一中をめざす予備校のようなもので、スパルタ式教育で徹底的な入学準備をやらされた。スパルタ教育を経て、私とともに神戸一中に入学した連中のうちには服部正吾(田辺製薬工場長)、塩路義部(敷島紡績常務)、磯野正俊(北見パルプ専務)の諸君らがおり、世に出た人が多い。
小学校では宿題もうんざりするほど出され、参考書を副読本として片っ端からやらされた。そのころ安随亮一郎(いまは木村姓)先生がおられ、びしびしやられたが、反抗もせずに黙々と勉強した。安随先生は教育に熱心な方でことしの春40年ぶりでお目にかかりいまでも文通している。長い人生でいつまでも交際できる先生は得がたい存在であると思っている。
当時の神戸一中といえば全国的に知られた有名校である。愛知県のいなかから大都会の小学校に転校したときはどうなるかと思ったが、それもうまくいき、とにかく選ばれた人しか入学できない神戸一中にはいれたのだから感激もひとしおであった。
中学にはいると、小学校で詰め込まれた反動から全然勉強しなかった。1、2年はテニスに凝り、3年ごろから始まったばかりの無線に興味を持つようになった。無線の組み立てや機械いじりに夢中になり、成績はみるみる落ち、しりから数えた方が早くなった。

こづかいためて真空管買う

そのころは父が残した井深家の財産もあり、母は機械を買う金をそこから出してくれた。真空管はまだたいへんな貴重品であった。1つ10円以上もしたので、中学生の私にはそうたやすく手にはいる品物ではなかった。いまのようにラジオ屋というものはなく、神戸港にはいる船の無線サービスをするためにいまの日本無線の出張所があったぐらいだった。
私はふだんからそこへ出入りして所員と仲よくしていたので、やっとのことでこづかいをためて真空管を買った。ていねいにわたにくるんで、まるで宝物のように胸をはずませて大事に家に持ち帰った。無線機は真空管を買う前から配線してあったが、へたな継ぎ方がしてあると苦労して手に入れた高価な真空管が瞬時にダメになってしまう。何回も調べて間違いないということでパッとスイッチを入れた。
当時の真空管はまるで電球のようにへやが明るくなった。フィラメントをともして調整すると雑音が聞こえてくる。コンデンサーをゆっくり回しているとやがて無線が「ツーツー」とはいってきた。このときの感激はいまでも忘れることができない。7、8時間するとバッテリーがだめになるが充電器は高価なので重い蓄電池を持って町までいき、充電してもらわなければならない。そんなに苦労してもやめることはできなかった。
そのころちょうど試験放送をやっていた新聞社が大阪にあった。私がこの放送を聞いていると近所の人が集まって来て大騒ぎをしたものだ。そのとき総選挙があって、新聞社ではどんどん新しいニュースを放送した。近くの新聞販売店の軒先の速報はあちこちの中継を経てくるためおそいので、私が放送で聞いたのを知らせてやると、ニュースの早いのに目を丸くして驚いた近所の人々の顔がいまでも思い出されてくる。試験放送は1カ月で終了したが、その最後の日にアナウンサーが「放送はきょうで終わります。皆さんさようなら」と言ったときにはなんともいえぬ惜別の情にひたったのを覚えている。
当時アマチュアラジオのはしりをやっていた者、つまりハムの草分けには草間貫吉(朝日放送元常務)、梶井謙一(日本アマチュア無線連盟会長)、星野憧(東京工大教授)、笠原功一(ソニー常務)、谷川譲(山下汽船取締役、北米総支配人)の諸氏らで後年名をなした人が多い。このころのアマチュアは部品を入手するのがたいへんなことだった。コイルでもトランスでもときには蓄電器さえも自作した。

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