杉村春子(2)声楽家への夢

三浦環にあこがれる

中国山脈を背景にして、瀬戸内海を表玄関にした広島は、太田川の三角洲にある美しい都会です。四季の気候にも恵まれて、くだものなども豊富でほんとにいいところでした。私は、明治の末年、広島に生まれました。

ところがその広島が世界史上初めての原爆による廃嘘の町として有名になりました。自分を育ててくれたふるさとが、無残も無残、思い出のかけら一つ残さないようなこわされ方をしてしまって、なんだか自分の過去の一部がまるっきりもぎとられてしまったような気さえします。

でも女学生のころ、よくボートに乗って遊んだ川だけはいつ見ても昔のままの姿を保っています。女学生時代、夏の夕方、仲のよいクラスメートとボートに乗って川上の静かなところまでこいで行き、将来のことなど語り合った日のことをなつかしく思い出します。

私は、小学校の5年生ぐらいのときから声楽家になりたいと一生懸命に思いつめるようになっていました。それは一年生のときの学芸会で「私の人形はよい人形、目はバッチリと色白で、小さい口許愛らしい、私の人形はよい人形‥‥‥」と独唱させられたのが病みつきで、年とともにハッキリした形をとってきたものと思います。

そして女学校に進んだころは、もうすっかり声楽家の卵のつもりで、あこがれは、世界のプリマドンナといわれた三浦環女史を初め、平井美奈子さん、関鑑子さんなどでしたが、とりわけ、三浦環先生のマダム・バタフライの「ある晴れた日」を広島の寿座で聞いた夜はすっかり興奮してしまったものでした。水色の、ジョーゼットのような洋服地を和服に仕立てて召していらしたあでやかな舞台姿は、あの美しいハリのあるすばらしいソプラノと一緒に、いまでも私の胸に焼き付いています。

そして、私の夢はふくらんで、ついに、紺のはかまを胸高にはいた上野の音楽学校の生徒になるんだ、という決心が頂点に達しました。

私の父は、すでに小学校の時分になくなっていて、あとは母一人子一人の寂しい家庭でしたから、東京へ、まして女の子の分際で遊学するなどということは、いまのアメリカヘ留学することよりも大さわぎなことでした。したがって、ちょっとやそっとのことで私の希望はかなえられそうもありませんでした。どうしても音楽学校を受験する、と一歩もひかない私と、絶対にだめだとがんとして譲らない母と、まる3年対立状態が続きました。

いよいよ女学校の卒業期になりますと、さすがの母も根負けがしたのか、あるいは、こんなに一途に望むものならやらせてやろうという親の慈愛からか、とにかくようやく、私の音楽学校進学が許されることになりました。ところが、そのときの私は、あまり母との対立状態が長かっただけに、気が抜けて張り合いがなくなっていたものとみえ、それほどの感動も示さなかったようです。

そんな私でしたから、女学生時代も、どうも先生方には困った生徒だと思われ続けていたようです。狭い地方の都会で、音楽好きの若い男女が、ピアノのある家に集まって夜おそくまで合奏だコーラスだとわいわいさわいだり、少女歌劇のまねごとのようなものを先生方の反対を押し切って上演したり、そしていつもその先頭に私が立っているものですから、自然と派手なうわさをまきちらす結果となり、私をかわいがって下さった担任の先生を、ずいぶんはらはらさせたものでした。

杉村春子(1)役者冥利

「女の一生」に深い愛着

先輩の方々に伍して、こういう文章をつづりますには、私なんかまだまだ貫録不足で面はゆい気がいたしますが、終戦の年(昭和20年) の4月に初演した「女の一生」が、この7月(昭和43年)で上演回数500回を越えることになりましたし、ともに歩いてまいりました文学座も、30年の歳月を経ましたので、自分の通って来た道をふり返ってみるには、ちょうどいい機会かと、筆をとらせていただきました。空襲のさなかの初演から今日まで、「女の一生」は、もう私から引き離すことのできない作品になりました。

空襲に明け空襲に暮れるあのころ、人は生きてゆくことだけで精いっぱいの有様でしたが、森本薫さんはこの「女の一生」の執筆に夢中でした。大切な原稿がもし焼けてしまったらという懸念から、書き上がるとコピーして、どこへ行くにもカバンの中に入れてもち歩き、片時も自分の身辺から離さず書き続けていました。

いまでは想像も及ばないあのころの悪条件のなかで、文学座のために一生懸命書き続けられた「女の一生」、そして布引けいという役、深い愛着を感じないわけにはゆきません。

従来、日本では新劇はあまり再演ということをいたしません。劇団の方でも、年に何回という数少ない公演ですから、なるべくそのつど新しいものを上演したいと考えるでしょうし、また演出が前回に比べてどんな風に違ったか俳優がどれほど成長したか、などということに興味をもって一つの作品を追求するような観客が少ないせいもあるでしょう。また、繰り返しての上演に耐えるだけの芝居が少ないということもあるでしょう。

そんななかで「女の一生」が、お客様の強い要望にささえられて初演以来500回も上演できたということは、新劇の役者としてあまり例のないしあわせな経験を積んだことになるわけです。

ご存じの方もあると思いますが、ヒロインの布引けいという役は、10代から60代になるまでを各幕で演じ分けてゆくのです。それだけに今日になってもなお、ああでもない、こうでもないと考えますし、年とともに少しずつでも自分の物の見方なり感じ方なりが広く深くなってきているものとすれば、これででき上がったというものではありませんから、毎日毎日が楽しみというわけです。それに、舞台は、一回こっきりの生きもののようなものですから、ほんのひとこまでも見る人の目に焼きつくような芝居ができたらどんなにしあわせだろうといつも思います。

終幕に、けいはいいます。
「私の一生ってものは一体何だったんだろう‥‥‥私はいま、私の一生はこれからという気もするんです」。

そして、もう自分をなくして生きてゆくことはすまい、わたしの新しい生涯はこれから始まるのだという思いをひそめるのですが、とにかく一つの役を長い時間をかけてやってきたということは、自分ながら並大抵のことではなかったと思います。

それに20年以上もやってきましたのに、最近になってもある瞬間、ハッと思い当たることがたびたびあります。人間と人間の心の行き違いとか、自分の周囲のみんなにそむかれてしまう孤独感とか、年をとった悲しみとか、ああ、けいの思いはこうだったんだな、ということが初めて実感としてわかってくるのです。

「戦争が終わって自由な時代がきたら、君にもう一つ違った『女の一生』を書いてあげる」と約束された森本さんは既に亡き人ですが、いまの私は、布引けいの「女の一生」をもし私の一生で完成させることができたら、それこそ役者冥利に尽きることと思っています。

井深大(17)おわりに

ソニーはわたしの夢
理科教育資金制度に自負

最後にソニーの歴史の落ちこぼれをもう少し拾い集めてみよう。昭和29年、東北大学金属材料研究所と連絡上のこともあり、仙台付近の多賀城にテープとフェライト(磁性鉄心)の工場を新設した。以来年々増設して材料関係の有力工場に育ってきた。

一方本社工場もだんだん手狭になってきたので厚木に約13万平方メートル(約4万坪)の土地を求めてトランジスター関係の生産工場を移すことにした。昭和35年の秋完成し、若い女子従業員の手で毎月150万個のトランジスターを生産している。また昭和36年5月には横浜市保土ヶ谷の新道側の山の上にソニー研究所ができあがった。鳩山所長以下80名、おもに半導体の基礎問題と取っ組んでもらうのが目的である。時間はかかるかもしれないが楽しみな存在である。

次はなくなった人たちのことであるが、会社のいちばん苦しい時にお金の苦労をしたままで病没した長谷川監査役、ニューヨークで、楽しみにしていた本社を見ることなく急死した山田志道嘱託、当社の赤ん坊時代から少年時代まで手をとって育ててもらった今はなき万代前会長と前田前社長等々、走馬灯のように思い出されてくる。

年々ソニーも名物のようになって、見学に来られる内外の人数も毎月3000人から5000人になってきている。皇太子、同妃殿下は別として、ロバート・ケネディ夫妻、ダニー・ケイ、ハロルド・ロイドらは印象深いお客様だった。

赤旗のうずまくストライキのさなかに秩父宮妃殿下はじめ池田首相、水田、小坂、荒木、椎名、石田各閣僚以下300名のお客様を迎えなければならなかった36年5月の当社創立時周年祝賀会は、私にとって忘れることのできない日であった。

また日本としても初めての経験であり、当社の事務部門にとっても前代未聞の大仕事だったADR米国公開も、36年の大事件だったが、これは盛田副社長の全くの一人舞台で詳しくは彼がこの履歴書を書くまで時をかしていただきたい。

直接の仕事以外でソニーが世の中にいちばんお役に立っていると自負しているのは「小中学校理科教育振興資金の制度」だろう。これは小中学校から自校の理科教育の実際と将来の計画を論文にしてもらって、これを東大の茅先生、文部省の内藤先生、元科学技術庁の篠原先生方に実際審査していただき、その研究資金として100万円、50万円(各数校)、10万円(約却校)を寄贈するものである。昭和34年に始まってすでに7回、総額4000万円以上にのぼっている。37年末にも福井県の武生小学校を訪れ、100万円のお金が先生方の努力によっていかに活きた働きをするものかということをまのあたりに見てきた。

いままで受賞校の近所から必ず次の受賞校が現われ、代表的な受賞校には年間数千名の見学者があることなどで特に地方の小中学校の理科教育の振興には予期以上の効果があがっているようである。日本をほんとうに科学の国にするためには大学の理工科の定員を増やすことばかりではなく子供の時から科学にひたらせることもより大切なことだと信じている。

私の履歴書がすっかり「ソニーの履歴書」になってしまったようだが私からソニーを引き去ったら何も残らない。また残らなくても少しも悔いないどころかたいへん満足に思っている。私のやりたいこと、私の夢を実現させる場がソニーだったのだ。また幸いそれを実現させることが今日までソニーにとってはプラスになってきた。夢とわがままは当分続くことだろう。

私は盛田君以下のこのうえない良いメンバーに囲まれて生きてきた。この人たちは無謀にも近い私の夢を実現させて楽しませてくれる。こんな幸福は世の中にそんなにあることではないと信じている。
(昭和46年よりソニー会長。51年より同名誉会長)

井深大(16)マイクロテレビ

開発者・江崎君の進路

ここで最近ソニーを最も世界に有名にしたエサキダイオードとマイクロテレビについて記したい。

エサキダイオードは与える電圧を大きくするとある点で電流が減るという普通のダイオードには見られない特性を持っている。これは負性抵抗と呼ばれ、トランジスターと同じように発振とか増幅の作用があり、トランジスターでは及びもつかない高い周波数でも働くので極超短波域や高速度の電子計算機では、他の物ではやれない威力を発揮する。そのためトランジスターにつぐ大きな発明として注目されている。

前に記した成長型のトランジスターを改良するために純度を高くしたゲルマニウムに不純物を入れてその量を増してゆく実験をしているうちに普通では見られない特性曲線が現われた。たぶん測定違いだろうくらいに考えて江崎主任研究員がこれを再検討してみるとどうしても新現象だということがわかり、これを理論的に解析して理論体系を生み出した。

これがエサキダイオードと呼ばれるものである。私はこれはたいへんなものだと思い、日本の大学と研究所とベル研究所に報告し、もちろん当社の回路を研究している連中にも示したが、現象としてはたいへんおもしろいがどうしても実用的には使いものにならないというのが全部の答えだった。

それではしかたがないというので、34年の2月フィジカル・レビュー誌に発表した。これが世界の注目するところとなり、34年の秋、ブリュッセルでの半導体会議の席上、トランジスターの発明者ショックレー博士の激賞を受け、一躍江崎君は世界の名士となった。
米国の方々の会社からの招聴があったが、江崎君と相談のうえ江崎君の今後の研究をほんとうに生かす最善の方法としてIBMに移ることに決めたのである。世間ではけんか別れをしたの、どうのとたいへんやかましいことだったが、私はあくまで彼の才能を伸ばせるだけ伸ばすための処置だった。

極秘裏でやっと完成、天皇陛下にご覧いただき感激

35年、これもトランジスターラジオ以上の苦労をして、世界で初めてのトランジスターテレビ(8インチ)を発売するところまでこぎつけた。しかし8インチではラジオの場合の大型ポータブルに相当するので、ポケットへはいるラジオ相当品を作ろうということになった。米国のマーケット屋は8インチなんて小型は絶対売れるものではないと公言していた。だが5インチのブラウン管を試作してみると案外明るいよい絵が出るので、これならいけるという気になった。

8インチのトランジスターテレビを出した時、他社も数はそう出なかったようだが、間髪をいれず追尾してきたので、こんどはその裏をかこうというので作戦をたてた。いちばん秘密のもれるのはブラウン管用のガラスからだとにらんだ私は、既製のガラス会社に依頼することはやめ、まず自分のところで技術開発をし、いままで電気工業には全然縁のなかった柴田硝子に生産を依頼することにした。これには37年春なくなった柴田前社長にもなれない仕事だけにだいぶ苦労をかけたが、秘密は完全に守られた。

こうしてだいたい満足するセットができあがったが、自動車を走らせながら使ってみると絵が流れたりふらついたりして実用にならない。回路をすっかり改良して生産態勢が整ったのが36年末。いままで大勢のお客さんに見せていたテレピのラインの見学を突然中止してしまった。世の中ではいろいろのデマがとんだ。カラーの生産が始まったの、ポケットにはいるテレビができたそうだという話まで出てきた。なかでも新製品にはSV17号という製作番号がついていたので、17インチに違いないという説が最も有力だった。

37年3月末両陛下ご来社の光栄に浴したときもマイクロテレビの生産ラインは最も見ていただきたかったところだったが、発表前だったのでご休憩所で製品だけを見ていただくことにした。身を乗り出すようにして小さなテレビの絵をご覧いただいた感激は終生忘れることのできないことである。

こうしてマイクロテレビは37年4月に発表して5月から発売、予想を上回った売れ行きに生産の方がすっかりうれしい悲鳴をあげた。盛田副社長らの努力で10月4日にニューヨーク5番街にショールームを開設し、同時にマイクロテレビを売り出した。

お客さんが1日平均6700人も押しかけた。3000台送ってあったテレビが全米で1日に売れてしまい、その後飛行機を2度チャーターして送らなければならなかった。

井深大(15)ビデオレコーダー

補助金受けられず断念した「世界初」

日本で最初のテープレコーダーを仕上げて商売にのせ、ほっと一息ついたのは、昭和27年ごろで、ちょうど日本のテレビ放送が産声を上げたときである。声を録音できるのだから、テレビが録画できないこともあるまいというのが、技術部の皆の考えだった。当社の新しい物の大部分を試作し成功させて、当社の基礎を築くのにたいへん功績のあった木原君が、それでは一つやってみましょうと、とりかかったのが昭和28年の夏である。

木原君というのはたいへん器用で、頭のきれる人で、こちらから考えを一通り述べると翌日はもっとよい考えのものが手づくりでできあがっているという神様のような人である。戦争後、早稲田の専門部でちょっと私が教えた関係で引っ張って来たのだが、当社の磁気テープ、録音機の初期のころの試作全部、日本での最初のステレオ・レコーダー、トランジスターラジオの第1号機、トランジスター化テレビ第1号機、日本でのビデオレコーダー(録像機)第1号機、同じくトランジスター化した小型機等々も全部同君が手がけたものであった。

まず音声用のテープの速度をだんだん上げて、ついに秒速4メートル近くまでにした。これはなかなかたいへんなことだった。そこで音声の録音と同じ手法をつかって500キロサイクルぐらいの波まで録音できるようになり、やっとポヤッとした画像が出るところまでできあがった。

しかし、これでは普通30分ぐらい録音できるl巻のテープが40秒ばかりでなくなってしまう。このままでは不便なので現在用いられているような録音ヘッドを回転させる方式やその他のいろいろな方式を研究していた。

この問題で通産省の鉱工業技術試験研究補助金の交付を申請したが、残念ながら採択されず、またその他種々の理由もあってこの研究を中断してしまった。それを続けてやっていたら、VTR(ビデオレコーダー)も世界で最初の物が出せていたかもしれなかった。昭和33年に、米国アンペックス社がVTRの商品を発表したので当社もあわてて同じようなものをこしらえたら、数カ月でできてしまった。これはまえに述べた「完成したということを聞くだけで同じようなものができる」という好例である。

脅迫まがいで初めてのステレオ放送実現

続いてこれを全部トランジスター化し、しだいに小型化して今日では真空管式テレビセットよりもずっと小さくなっている。まだまだ家庭用というのにはほど遠いが、やがてどこの家庭でもカラー用VTRを置いて好きなテレビ番組を記録し、庭で振るゴルフスイングをその場で再生して見る時代もそんな先のことではあるまい。

話はまただいぶさかのぼるけれど、今日流行しているステレオの日本でのきっかけをつくったのは私である。ステレオというのは2つのマイクロホンを並べて置いて、そのおのおのの音を別々に録音して、別々に再生させる2チャンネルの録音再生方式で、ちょうど人聞が2つの耳で立体的によい音を聞いているのと同じ理屈である。

私は昭和27年、米国でテープ式のステレオを聞いてその音のよいのにすっかりどぎもを抜かれ、帰ってきて高級なテープレコーダーを改造して、1本のテープに左右わずかに異なった2つの音がはいるようにしてこれを別々の増幅器を使って、別々のスピーカーから出せるようにした。

この音を聞いた人はだれもがその音の現実感に驚いた。このままではもったいない。そこで当時級友でNHKの施設局長をしていた村瀬一雄君(故人)のところへ行って、ひとつ第1放送と第2放送の波を使ってステレオ放送をやってくれ、もしNHKが取り上げてくれなければ民放2社を使って日本最初の立体放送をやる。もうスポンサーもちゃんと決めて朝日麦酒の山本為三郎さんにお願いしてあるのだと脅迫して、だいぶ無理をして夜中の1時過ぎに日本では最初、世界でも珍しい立体放送の波を私どものこしらえた録音機とテープを使って出した。

夜中の1時の放送にもかかわらず感激的な投書が全国から60通も来て、ついにNHKも立体放送を定期的にやるまでに踏み切った。その後レコードのステレオができ、このプームを招来したが、FMではステレオ放送があたりまえになろうという今日、感慨無量なものがある。

井深大(14)小型ラジオ

どこにもない物をつくる

成長型トランジスターはさっぱり成長せず金をくうばかりでなかなか使えるものが出てこない。私はこのころトランジスターに手を出したことはたいへんな失敗だったかと幾度も反省させられた。それでもやっとどうにか使えるものがたまに出るようになった。それを待ち構えていてラジオにつけて働いた、働かないで大騒ぎであった。

歩どまり5%、つまり100個こしらえて及第するものが5個になったとき、ラジオの生産に踏み切った。前にも書いたように世界で2番目のトランジスターラジオの商品化はかくしてできあがったのだが、世界で2番になれるのは当然である。あたりまえの企業家だったらこんなむちゃな計画は立てるわけがない。しかし歩どまりは必ず向上する目算があったので私は思い切って決断したのである。

もしあの時、アメリカでものになってからとか、欧州の様子をみてからこれに従つてなどと考えていたとしたら日本が年間500億円の輸出をするトランジスターラジオ王国になっていたかどうかははなはだ疑わしく、したがって今日のソニーもありえなかっただろうし、この無謀ははなはだ貴重な無謀だったと考えている。

さて、見本のラジオができあがるとこの歩どまりでは相当高価なものになるし日本での販売よりは海外に売る方がよさそうだということで、盛田君はさっそく米国に飛んだ。したがってトランジスターラジオは生まれるときから輸出品になる運命を負っていたようだ。
どこにもない物をつくるのだから、いくらでも売れてしまうのだったが、なにしろ遅々として上昇しない歩どまりとにらみ合いの生産で、思う存分売ったとはいえなかった。けれども私は後になって世界中にソニーが有名になったのは、こんな時代から売り込んだおかげだと思っている。

企業化する勇気

次にトランジスターをいちばん生かすのはうんと小型なラジオをこしらえることだと思って小型化を企画した。最初は部品屋さんが全然相手にしてくれないのをやっと頼み回って、しぶしぶきいてくれたのが今日のミツミ電機とフォスター電機である。

今日世界中で小さなラジオを製作するには大なり小なり日本の部品屋さんのご厄介にならなければならないのもこんなところに起因している。

こうして63型と称したポケットへはいるラジオが世界で最初に生まれた。これも生まれるまでは社内でも大反対があった。大きなラジオでさえ1万7000円なので高くて圏内販売はなかなかのびない。これを小さくしたらもっと金を取りにくくなるというのが営業の声だった。しかしこの63型はついに家庭のラジオから個人のラジオへの革命のいとぐちを作って全世界へ50万台以上も売れていった。これはもちろんラジオとしての世界記録だった。クリスマス・シーズンには米国へも空輸しなければならないぐらいになった。しかし、国内メーカーもだまっていたわけではなく、約l年半か2年ほどのギャップで追い付いて来た。かくて日本は世界最大のトランジスター生産国になったのはよいが、たちまち乱売が始まり、トランジスターラジオの安値競争は世界的に有名になって値段はどんどん下落した。新しいマーケットを開拓する努力をせず、他人の築いたマーケットにわり込み、ただ値段をくずすだけしか能がないという典型的日本商法をいやというほど知らされた。

これを切り抜け、振り払うために、われわれは短波用、超短波用(FM用)トランジスターを開発しなければならなかった。おかげで世界最初のトランジスター短波受信機、FM受信機を出すことができ、これがトランジスターテレビにまで進展することになった。過当競争も日本にはよい刺激剤と考えるべきかもしれない。

人がやったというニュースだけで日本では同じものがすぐにできるというふしぎな性質がある。これはそれを作るだけの技術力はじゅうぶん持っていながら、これを思い切って企業化しようという勇気にかけていることを証明しているようだ。すべての分野で日本の技術力に自信を持ち思い切った決断を下せるようになったときこそ真の日本の暁は訪れるだろう。

井深大(13)トランジスター

米ウエスタン社と提携に成功

最初に商品として出したG型というレコーダーは机ぐらいの大きさで、重さが35キロあった。1人では持って歩けない代物だった。だれもが初めて見るレコーダーだけにその性能には鷲き感心をしても、定価16万円では手を出す人がいない。思惑違いにだいぶあわてた。これではいかんと今の総務部長の倉橋君が方々かつぎ回って、やっと裁判所へ初台納入し息をついた。

次に企画したのはトランク型の8万円ばかりのもので、最初から小学校の視聴覚教育をねらったものだった。これはみごとに功を奏し、3年ぐらいの間に日本の小学校の3分のl以上がl台ずつ持つようになった。テープレコーダーをつめて「テープコーダー」という商品名にしたために、どちらがほんとうのことばだろうと世の中で大議論になったのを、図に当たったとほくそえんだものである。
26年10月の決算では売上1億200万円、利益900万円、配当3割を実現した。私はこのとき新商品の開拓の困難さと、それが成功するといかに強いものであるかということをじゅうぶん味わったのだった。

こうしてテープコーダーもどうやら軌道にのったので、もっとマーケットを勉強したいと思い、昭和27年に初めて渡米した。が、レコーダーの使用先としては、語学教室以外にあまり見るべきものがなかった。特に小学校などでは日本の方が高度な使い方をしていた。特殊なレコーダーを持参して米国へ売り込もうとしたが、なかなかそうは問屋がおろさなかった。

滞在中、米人の友人がこんどウエスタン社(ウ社)がトランジスターの特許を他社に使わせるというニュースを持ち込んで来た。トランジスターはその3年前に発明されたもので、その時は縁なき衆生と思っていたが、この時はかなりの関心を持っていた。というのは、トランジスターが初めて発表されたときのものとは違って、だいぶ改良されていたことと、私の会社もテープレコーダーを一つ物にして余裕ができたこと、テープを仕上げるために身分不相応に物理、化学の人をとったため、これらの人々の次の仕事も考えなければならない状態にあったからだった。

そこでニューヨークに初年ほど住んでいる山田さん(故人)という人にこれからの会社の米国での仕事を依頼することに決め、ウ社との今後の特許交渉も頼んで帰国した。ウ社では当社の経歴をみてテープを独力で完成したことを高く評価し、すぐ契約をしてもよいといって来た。

むずかしいからこそやる価値がある

ところが、当社が真空管も作ったことのない会社であり、トランジスターそのものに対する一般の認識も少なかったせいか、政府当局の認可がなかなかもらえなかった。その問、28年の8月には盛田君がニューヨークへ行って、ウ社との間に完全に契約を済ませてしまい、ウ社からはいろいろな資料を送ってくれたが、肝心の政府の許可が出ないので手を出すわけにもゆかず、非常に困った。

後の話になるけれど、世界で最初のトランジスターラジオは、米国のリーゼンシー社が昭和29年12月に発売し、当社はそれから半年おくれて世界2番目に名乗りをあげたのだが、われわれがもうちょっと努力していたら、たぶん世界最初の栄冠を得られたのに、といまになっても残念に思っている。

29年1月末、許可の出るのを待ちかまえて岩間和夫君(現ソニー常務)と2人で渡米し、アレンタウンにあるウ社のトランジスター工場を見学してトランジスターのできるところを日本人として初めて見た。

ウ社の人々から、日本でトランジスターをこしらえてなにに使うかと質問されたので、ラジオ以外こしらえるものがないと答えると、皆口をそろえて、ラジオだけはやめておけ、アメリカの電子工業メーカーもラジオ用の高周波トランジスターでは、歩どまりが悪くて手を焼いているのだ、と忠告してくれた。当時米国ではトランジスターはほとんど全部補聴器に使われていたが日本ではその当時は、補聴器がよい商売になるとは考えられず、どうしてもラジオを物にしてやるぞと決心を竪くして帰って来た。

帰国するとすぐに岩間君をヘッドにして会社中の最も生きのよい連中を集め、半導体部をこしらえた。いろいろやってみるとウ社で忠告された通りラジオ用のトランジスターは製作不可能に近いほどむずかしいものだとわかった。なんべんも中止しようと思ったが、むずかしいからこそわれわれがやる価値があるのだ、と思い直して、これに没頭した。そうしてだんだん一般に製作されているのとは違った成長型のNPNというトランジスターに進んでいった。これが後にエサキダイオードの生まれるきっかけになったのである。

井深大(12)テープレコーダー

やっと成功、手をとり合ってうれし泣き

私はこれまでいろいろな物をこしらえて商売にしてきたが、たいてい軍とか役所とか放送局のもので与えられた仕様書によって作ったものばかりだった。それで何か大衆に直結した商品をかねがねやってみたいと思っていた。大衆は製品のきびしい審判官であり、正しい評価をするものだと信じていたので、大衆商品は一番やりがいがあるような気がしていた。

ラジオは終戦後どこのメーカーでも手をつけていたので、それ以外のものとなると、録音機ぐらいしかないということになった。ワイヤレコーダーは戦争中すでに東北大学の永井研究室などを中心に相当発達していたし、ワイヤそのものも東北大学の金属材料研究所の手でよいものができていたが、戦後は磁気特性のよい鋼線ができておらず、といって自分たちの手でこれを製作するわけにもいかなかった。

ちょうどそのときNHKに米軍がテープレコーダーを1台持ち込んで来たのを見せられた。これだ、われわれのつくるものはこれ以外にないとそのとき決心した。

だがテープをつくると決心したものの第一、テープのペースをなんでつくるかで行きづまった。ベースの材料もいまでこそどんなプラスチック材にも事欠かないが、当時は適当なものが全くなかった。セロハンでやってみたが伸び縮みが多く、とてもテープとしては使いものにならない。いろいろやってみた結果、紙でつくる以外に適当な材料がないということになった。

たまたま本州製紙に盛田君の親類の小寺五郎さん(現在同社富士工場次長)がいたので、協力してくれることになった。本州製紙で何回も試作してやっとできあがったのがクラフト紙に何回もカレンダーをかけたものだった。

一方、磁気材料の方も初めは見当がつかず、東京工大の加藤博士の発明したOPマグネットを粉にして塗ってみたり、べんがらを焼いたりして硝酸鉄にたどりつくまでに木原研究員にはだいぶ苦労させた。後にシンクロリーダーで有名になった東京工大の星野愷教授にもいろいろお知恵を拝借した。

最初はザーザー雑音ばかりでなかなか思うように音が出てこなかった。いろいろやった末、なんとか音が出るようになったのだが、このときは木原主任研究員をはじめ研究従事者は徹夜で研究する日が何日も続いたのだった。苦労が大きかっただけに思いのままの音を録音できたときは、みんな手をとってうれし泣きに泣いた。テープレコーダーは日本では初めてのものであり、世界でもテープとテープレコーダーと両方をつくっている会社は、今日でもほとんど例がないようである。

「アメリカさん」にたてつく

このテープをこしらえ上げたことがわれわれにとっては「やればなんだってできるのだ」という大きな自信を与えてくれることになり、後にトランジスターをやるときにもたいへんな力となったのである。

また録音方式では前述の東北大学の永井健三教授や、五十嵐悌二氏などの発明になる高周波バイアス法の特許があり、この特許権を安立電気から25万円で買い取って日本電気と共有した。この特許は現在世界中で使用されており(永井先生が米国にも戦前出願されたが戦争のためうやむやになって日本でのみ権利があった)、日本へ輸入されるテープレコーダーは全部特許料をいただくこととなった。

そのころ東京にあるバルコム貿易という米国・商社がテープレコーダーを輸入しても特許料を払おうとしないのでわれわれは警告を発したがどうしてもきいてくれず、かえってわれわれを米軍司令部へ呼び出したりしておどかしてきた。そこで日本の特許の権威のためにもと考えて三百何十万円かの供託金を積んで東京地裁に訴えた。

世の中はこれに対して非常に勇気があるという称賛と、無謀だ、アメリカさんにたてついて供託金を没収されたらどうする気だという非難とこもごもだった。裁判の途中でわれわれの言い分はほとんどいれられて和解となったが、実のところほっとした。

井深大(11)新工場完成

資金繰りに明け暮れる

工場の移転だの仕事の増大だので会計の方は苦しい連続だった。どうにも切羽つまったのでこれは銭形の親分に頼むよりほかないということになり、盛田君と2人で野村胡堂さんの高井戸の屋敷を訪れた。野村さんには増資のとき厄介になったばかりなので気がすすまなかったが背に腹はかえられなかった。

5万円借りるつもりで出かけたのだがどうしてもこれが言い出せない。やっとのことで口から出たのは「3万円だけ新円で拝借したいと思いますが・・・」と言うことばだった。

これを聞いて盛田君はびっくりしてしまった。あとの2万円はどうするんだろう。盛田君はとっさの思いつきで「もうl万円お願いしたいんですが・・・」と付け加えた。さすがの盛田君ももう2万円とは言い出せなかったのである。野村さんは奇妙な2人のやりとりをみて「うん」とうなずいて快く貸して下さった。足りない分は盛田君の実家から融通してもらい、22年の正月早々、東通工の2つの工場と事務所は御殿山に集結を終わった。

ここは現在のソニーの本社工場のある場所だが、ひどいあばら屋のバラックで、床はがたがた、屋根は板ぶきでそれもスキ間だらけ、雨が降り出すとへやの中で傘をさすやら、機械に板をかけるやらの始末だった。

それでも全員がlカ所に集まって、これから仕事がやれるというのはたいへんうれしいことだった。この工場で気に食わないことは入り口にあるよその家にいつもオムツが干しであって、その下をくぐるようにしなければわが社の玄関にたどりつけないことだった。それと便所がきたなくてすぐいっぱいになってしまうことだった。しかたがないので従業員の1人がその始末をするために大きな穴を掘った。その従業員は掘っているうちに自分の掘った穴から出られなくなり、あとあとまでの笑い話になった。

工場の片すみの宿直室兼用の8畳の部屋で毎月当社の重要な役員会を開いた。それがすむとペこペこの破れ畳の上でざるそばを食べるのが例だった。メンバーは前田社長のほか万代順四郎相談役、田島道治相談役、村瀬直養監査役のお歴々、ときには佐藤喜一郎三井銀行社長(当時)まで加わられたこともあった。

飲み食い放題の祝宴、おかげでその月は給料遅配

昭和23年といえばインフレがピークに達したときである。「勘定合って銭足らず」の経営が続いた。この年の4月決算では640万円の売り上げで利益金11万円を計上した。59名の株主に初めて5分の配当を行なった。よその大会社が企業再建整備法で資本金を切ったり配当を停止していた時代である。わずかでも配当のできたことは大得意だった。

製品の種類がふえるにつれて工場もだんだん手狭になってきた。そこで御殿山の山の上に工場を建てることになり、浦賀船渠の講堂を買い取って約1000平方メートルのボロ工場と比べると見違えるようにりっぱな工場になった。苦しい経営時代が続いただけに新工場の完成は自分の家ができあがったときのような喜びだった。

この工場ができた24年はまだ食糧事情の悪いころで、食べ物には魅力があった。そこで工場の完成を祝って。食べ放題、飲み放題のレセプションをやろうということになり、時の総務部長の太万川正三郎君(現ソニー企業社長)が東奔西走して、すし、焼き鳥、支那そばなどの屋台を出した。山海の珍味を買い集めての盛大な祝賀会になった。

当日は万代順四郎、前田多門、緒方竹虎、石橋湛山、高橋龍太郎、山際正道、佐藤喜一郎、野村胡堂の諸氏をはじめ天下の名士、取り引き関係者200名が集まった。

お客さんの招待が終わってから従業員や家族が集まって大いに立ち食いした。さすがのすし屋も手のひらにマメをつくるほどだった。
だがこの豪華なレセプションを聞いたためその月の給料日に金が足りず給料遅配という事態が起こった。現金繰りを誤り、金策が間に合わなかったのである。そこで3分のlを給料日に残りの3分の2は月末に払ったが、これが当社の従業員に対するたった一度の遅配(幹部はその限りにあらず)で、以後これにこりて、万代さんが会長に就任されるまでパーティーというものを聞いたことはなかった。

井深大(10)新円かせぎ

当たった電熱マット

東通工が発足して1カ月とたたないうちに白木屋の工場では手狭になった。そこで21年6月に長野県上高井郡小布施村に200平方メートル(60坪)ばかりの疎開工場を見つけて長野工場を開設、白木屋の本社工場を東京工場として従業員もふやした。地震研究所の研究員だった岩間和夫君も盛田君の親友というよしみで参加してきた。岩間君は入社と同時に音片発振器の研究にとりかかった。この第1号商品は8月に簡易信号発生器として市販した。それと時を同じくして「クリア・ヴォイス」の商品名でピックアップを製作、服部時計店、緑屋などから本格的に売り出した。このころから商品らしい商品として大衆との結び付きができた。

だが経営もどうやら軌道にのってホッとしたのもつかの間、白木屋から「部屋をあけ渡すように」との申し入れを受けた。デパートとしては商品がだんだんふえてきたので売り場を拡張するのは当然のことだった。

さて工場を捜すとなるとなかなかないもので、結局技術的な点で日本測定器時代から指導していただいていた横河電機の技師長だった多田潔氏(故人)だの、同じ横河の林さんのお世話で吉祥寺の内田工場と三鷹台の太万藤工場とに間借りをしてやっとおさまった。

三鷹台にあった太万藤工場はたいへんなところで消防自動車と同居を条件に借りたのだからたまらない。雨の日など自動車に遠慮しながら窮屈な思いで仕事をしなければならなかった。そのうえ事業拡張に資金がいるときに新旧円の切り替えというやっかいな問題が起きた。そこで「新円かせぎ」に主眼を置いた商品をじゃんじゃんつくろうということになり、ピックアップだのフォノモーターなどを一生懸命つくった。

21年8月に資本金を60万円に増資した。当時「銭形平次」の出版で現金には不自由していなかった野村胡堂さんにもうんと出資してもらったのもこの時だが、新円不足は役所仕事がおもなだけに深刻だった。

しかたなしに電熱マットというインチキ商品を考えた。これはまず細いニクロム線を格子状に2枚の美濃紙の聞にのりづけし、これにコードをつけたものである。もちろん石綿などという気のきいた物は入手できず外側のカバーも繊維製品は統制で手にはいらないので本の表紙などにするレザークロスを買ってきて、ミシンをかけてこの中に美濃紙の発熱体を入れたわけだ。さすがに気がとがめるので会社の名前は入れるわけにいかず、銀座ネッスル商会(熱する)としゃれて逃げたものだ。

売る物のない時代に、これから寒さに向かう時だっただけに値段も手ごろだし、つくるだけいくらでも売れた。家族総出でミシンをかけたり、コードをかがったりして新円をかせいだ。

法隆寺出火でびっくり

ところがネッスル商会の電熱マットのお客さんから苦情が殺到し始めた。電熱マットはちょうど昼間の電圧でほの暖かくなるようにニクロム線の長さを合わせてあり、そのために紙でも燃えないですんでいるのだが、昼間は低い電圧が、方々で電気を使わなくなる夜中になるとうんと電圧が上がってそのため温度が上昇し、大切な毛布をこがしたとか、ふとんに焼きこげをこしらえたがどうしてくれるといった訴えである。

へたをすると火事にもなりかねないというので、そのころは電圧が上がってくるのが気になって夜も安心して眠れないくらいだった。ちょうどその時、法隆寺の火事が電気座ぶとんから起きたというのでドキンとしたが、幸いネッスル商会製ではないことが分かりほっとした。

本業の方がだんだん軌道にのり始めてくると、三鷹台の太万藤工場の持ち主が自分で仕事を始めるからというので追い立てにかかった。真相は当社の連中があまり夜昼なく働き回り、そのころ電力制限をこえると電気を切られる制度だったので、電気を切られてはというところだったらしい。

暮れの寒い夜空の中を盛田君と2人で西荻窪あたりを工場捜しに回って「皆がいっしょに働ける工場が手にはいったらどんなにうれしいことだろう」としみじみ語り合ったことをきのうのことのように思い出す。

実はその前に盛田家から3万5000円也を借金してりっぱな(?)中古のダットサン・トラックを手に入れて工場開の連絡に使っていたのだが、どうもたびたびエンコをしてたまらない。8万円ぐらい出すと新車が手にはいるというので5万5000円で売れる口があったので、大もうけをしたつもりで売り払ってしまったところ、当時のインフレで新車の値段がどんどん上がって二十何万円になるし、中古車もとても手におえないということで専務さん、常務さんとぼとぼと寒い夜道を歩き回らなければならないはめになったのである。

やっとの思いで21年の暮れもおしつまってから品川御殿山にあった日本気化器のおんぼろバラック工場(約300平方メートル)を借りることができ、ばらばらになっていた全社員が1カ所に住めることになった。これが今日のソニー本社工場の3号館あたりのところである。