豊田章一郎(15)石田退三さん

「自分の城は自分で守れ」
質実剛健のリーダー

トヨタ自動車には時代を画するリーダーが何人もいるが、私が入社した当時の社長の石田退三さんは間違いなくその一人だ。1888年生まれで、旧制中学卒業後、代用教員や家具屋の店員などを経て、繊維業を営む服部商店で商人道を学んだ。店主の服部兼三郎さんは私の祖父・佐吉の良き理解者で、織機をたくさん買ってもらっている。

店主の急逝後、縁あって豊田紡織に入り、その後豊田自動織機製作所に移った。経営者としての力量は並外れ、戦後、豊田自動織機の社長に就任。私の父・喜一郎が経営危機の責任をとって1950年に社長を退いた後は、兼務でトヨタ自工の社長を引き受けてもらった。

トヨタの窮地を救ってくれたのが、当時の日銀支店長の高梨壮夫さんと部下の梶井健一さんだ。自動車産業の裾野は広い。「トヨタの倒産は単にトヨタ1社の倒産にとどまらない。影響は中京地区全体に及び経済は大混乱に陥る」と一万田尚登日銀総裁を説得し、帝国、東海など24行からなる協調融資が成立し辛うじて倒産は回避された。日銀のおかげで会社が存続できた恩を終生忘れず、石田さんは私に「日銀に足を向けて寝てはいかんぞ」と言った。私は今もそれを肝に銘じている。

石田さんはいつも「自分の城は自分で守れ」と言った。爪に火を灯すような努力を重ね、財務体質を強化する一方で必要とあれば巨額投資も即断即決する。トヨタの財務基盤の強化を担った、元会長の花井正八さんは、役員の中で石田さんに一番叱られたのは自分だと回顧している。これはと思う人材に対する石田流の後継者育成法とも言える。

石田さんで面白いのは、経費にはうるさく言う中で大阪への出張は大歓迎だったことだ。商才あふれるお人柄と、商売の街・大阪がうまく共鳴したのだろう。

大阪と言えば、松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助さんと石田さんは非常にウマがあった。

昔はトヨタの大株主会を東京、名古屋、大阪でやっていた。大阪の株主の一人に松下さんがおられ、石田さんとの会話は漫談さながらだった。

ある時、松下さんはこう話した。「3%や5%、コストを下げようと思ってもなかなかできない。そんな中、貿易の自由化を控えて、石田さんから部品の値段を30%落としてほしいと言われた。すべてを白紙に戻し、設計から見直し、やりなおしてみたら、できてしまった。しかも、前より利益があがるようになった。石田さんに礼を言わなならんですわ」。他の大株主もやり取りを楽しみにしていた。

66年に名古屋市で佐吉の「生誕100年記念展」を行い、翌年に愛知県刈谷市で松下さんに記念講演をお願いした。松下さんは「(松下電器の)創業50周年事業として、松下電器の中央研究所の前庭に、エジソンの像を建て、その周りに世界の科学と工業の先覚者10人の胸像を飾る予定で、佐吉翁の胸像もぜひ飾りたい」と語り、会場からは割れんばかりの拍手喝采。翌年私もその除幕式に出席させていただいたが、今も佐吉の胸像は研究所の庭に飾っていただいている。

長らくトヨタの経営に重きをなした石田さんは、まさに質実剛健の経営者だった。

(トヨタ自動車名誉会長)

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