豊田章一郎(12)元町工場

建設委員長やり遂げる
技術者として成長実感

昭和30年代に入って、日本経済の復興が本格化すると、トヨタでも新工場建設の話が持ち上がった。当時トヨタの工場は戦前に父・喜一郎がつくった本社工場しかなく、本格的な乗用車時代の到来には対応できない。そこで石田退三社長が新工場の建設を決断し、30歳を少し超えたばかりの私が建設委員長の大役に任じられた。

当時、日本の自動車の生産台数は年間合計18万台で、乗用車は5万台にすぎなかった。乗用車需要は増えつつあったとはいえ、市場の行方は必ずしも定かではなかった。

そこに、トヨタの売上高120億円の約5分の1に相当する総工費23億円で、年産6万台規模の乗用車を専門に造る「元町工場」を建てようというのだから、まさに社運をかけたものだった。

1958年9月18日、地鎮祭が行われた。私は石田さんの期待に応えるべく、全力をあげて建設に取り組んだ。旧東海飛行機の工場跡の荒れ地をブルドーザーでならし固めるところから着手し、不順な天候の中でも工事を進めた。

初めての乗用車専門工場なので難問が続出した。大林組や伊藤工務店をはじめ、設備、機械の関係会社と互いに知恵を絞りあい、ひとつひとつ解決していった。

建設中は石田さんに経過報告を、英二さんら幹部には何かと相談にいった。石田さんは「順調でなによりだ」、英二さんたちからはアドバイスはもらったが、最後は「君が責任者だから思ったようにやればいいよ」と言うだけ。「何とか自分の手で仕上げるぞ」と闘志がわいた。突貫工事が続けられ、当初予定通り59年7月末に完成した。建設費も節約と工夫を重ねて計画通りに収めることができた。

8月8日、第1号車がラインオフし、地鎮祭から1年後の9月18日に工場の完成披露式典が行われた。竣工パーティーの席では、「この立派な新工場は、喜一郎さんの嫡男章一郎君以下若い人たちの努力で完成したことを、心から喜ぶものです」と石田さんが私を持ちあげてくれた。

私は、石田さんをはじめ幹部が私たちを信じて任せきり、温かく見守ってくれたことが何よりもうれしかった。人を信じてまかせきることは、難しいことだ。つい口を出し、おせっかいしたくなるのが人情で、大変な忍耐と勇気を要するものだ。

英二さんは後から振り返って「新工場は極端な言い方をすればいちかばちかの賭けであり、失敗すれば経営不振に陥っただろう」と述べている。その後モータリゼーションが到来し、トヨタが一歩抜け出せたことを考えると、石田さんや英二さんの先見性や決断力、度量の広さに改めて感心するとともに、私も技術者として一皮むけたと思っている。私は、元町工場の初代工場長も仰せつかり、工場経営も担当させてもらった。

新工場は元町工場と名付けられたが、これは実は地名ではない。石田さんの指示で京都の建勲神社へ私の部下の吉田弘さんが工場名をおうかがいに行き、「元町工場」の名前をいただいた。トヨタグループも佐吉の元・町工場から出発した。創業の原点を忘れず、今後の会社の発展の礎、つまり「元」となる工場。この2つの思いを込めて「元町工場」と命名された。ちなみに今の工場の住所は豊田市元町1番地だ。

(トヨタ自動車名誉会長)

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