豊田章一郎(9)結婚・入社

父の道を追いトヨタへ
三井伊皿子家の3女を妻に

父・喜一郎が1952年に亡くなると、私にも公私両面で大きな転機が訪れた。私生活では結婚である。

相手は三井伊皿子家当主の三井高長の3女、博子。東京の歌舞伎座でお見合いし、同年11月にお堀端の東京会館で結婚式を挙げた。

新婚旅行は初日は箱根強羅ホテルに泊まり、2日目は飛び込みで湯河原の温泉に泊まった。ちなみに私は旅行好き。54年に長女厚子、56年に長男の章男が生まれると、母や姉夫婦とも一緒に家族で日本全国を回ったが、飛び込みで宿を選ぶので当たり外れが大きい。

私自身はあまり気にならないのだが、子どもや家内はいい宿だと大喜びし、そうでもない宿だとガッカリする。父親として夫として十分な家族サービスができたかどうか、心もとない。

家内は戦後、財閥解体でさんざん苦労した。そのせいかどうか、自立心が強く、何事も自分でテキパキこなす活発さがある。結婚してすぐに自動車免許を取った。当時は普通車と大型車の区別はなく、その免許を更新してきたので、家内は今も大型トラックを運転する資格がある。

私の祖父・佐吉の妻、浅子は工場から家事までを取り仕切り、佐吉を支えた人だが、昔を知る親せきからは「博子さんは浅子さんにそっくり」とよく言われた。

博子は当時を振り返り、「戦後180度変わった生活にも愚痴一つ言わず、新しい生活に順応していた母の強さ、親戚づきあいを大切に誰からも慕われた豊田の母のあたたかい人柄はどちらも自分にとって大切なお手本でした」とよく口にしている。

名古屋の八事に構えた新居は、ユタカプレコンで建てた住宅だった。

もうひとつの転機は、トヨタ自動車工業への入社である。父の葬儀を行ったすぐ後に、トヨタの石田退三社長の呼び出しを受け、入社を要請された。

父は私を自分とは違う道を歩ませようとしていたが、一方で健康に不安を覚え、「自分に万一のことがあれば、石田さんや英二君に相談しろ」と言っていた。不幸にも予感は的中した。私は石田さんの言葉に従い、52年7月にトヨタに入社した。

最初の肩書は取締役検査部長だが、まだ27歳の若輩であり、業務見習いのようなものだ。事務所にいる時間は少なく、本社のクレーム品の置き場に通って、「これは何が悪くて、クレームがついたのか」を実地で調べた。

あのころは本社と工場の距離も近く、技術や生産の責任者だった英二さんや齋藤尚一さん、大野耐一さんもしょっちゅう現場に出入りしていた。中には靴の底についた工場の油で、オフィスの床を真っ黒に汚す役員もいた。

当時の会社は、今とは随分違う。まずみんな相当に若い。社長の石田さんこそ明治生まれで60歳を超えていたが、専務だった英二さんは40歳前後で、常務の齋藤さんも似たような年だった。

マージャンも盛んで、役員懇親会で温泉へ行っても、湯につからずに、マージャンばかりやって帰ってきたこともある。「こんなことでは、行く意味がない」というもっともな意見が出たため、それ以降、役員懇親会は近場でやることになった。

(トヨタ自動車名誉会長)

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