豊田章一郎(8)父の死

社長復帰目前に倒れる
「現地現物で学ぶ」一生の教え

私が企業人人生のスタートを切った1950年、父・喜一郎が社長を務めるトヨタ自動車工業は重大な危機に直面していた。49年に財政金融の引き締め政策であるドッジ・ラインが発動され、日本経済は不況色を強めた。トヨタでも月賦販売で大量の焦げ付きが発生し、資金繰りは日増しに厳しくなった。

喜一郎は、「人は切らない」と頑張ったが、それが通用する時代ではなかった。トヨタもついに希望退職を募り、労組はストライキに突入した。喜一郎は隈部一雄副社長とともに、混乱の責任を取る形で50年6月に退任、7月18日の臨時株主総会の結果、豊田自動織機の社長である石田退三さんのトヨタ社長兼任が決まった。

私はこの総会に株主の一人として出席し、一番後ろで事態を見守っていた。石田さんは演説の最後に「粉骨砕身して会社の業績好転に努力し、必ず各位のご期待に添うことを得ました暁には、再び豊田喜一郎氏を社長にお迎えすることを、前もって、皆様にご承認置き願いたいのであります」と涙ながらに訴えた。

国産車にかける喜一郎の夢と情熱がなければ、トヨタという会社はこの世にない。それを知る石田さんの熱い言葉に会場は静まりかえった。

父はその後、東京に小さな研究所をつくり、小型エンジンの研究などに取り組んだ。石田さんは上京すると必ず父を訪ねたという。トヨタの業績も朝鮮特需で見違えるように回復しており、総会での言葉通り、父に社長復帰を働き掛けたのだろう。

だが、父も頑固だ。当時トヨタは乗用車の生産はごく少数で、トラック専業会社の体だった。社長復帰の話にも「乗用車も作れない企業に興味はない」と固辞したが、最後は折れて52年7月の社長復帰が内定した。だが、好事魔多し。この年の3月、高血圧の発作に倒れ、57歳で亡くなった。父の早すぎる死は私の人生にも様々に影響したが、それは次回以降で語りたい。

経営者としての父の歩みを私なりに振り返ると、いくつか特筆すべき点があると思う。その一つは国際性だ。1929年の欧米出張で乗用車市場の巨大さを知ると、即座にフォードやシボレーと正面から競合する大衆乗用車づくりを決意している。「日本のような遅れた国で乗用車は無理」といわれた時代の常識にとらわれず、日本人の頭と腕による大衆車に挑戦した。

2つ目はスピーディーな決断と実行である。自動車参入を決めると、さっそくシボレーを買って分解し、すべての部品を原寸大でスケッチする作業を開始した。同時に部下に全国の部品や素形材の企業を回らせて、部品調達にも手を打っている。目標を決めると、一気呵成にゴールめざして真っすぐ駆けていく。そんなスピード感がある。

そして、最後に現場の重視。若かった私に父はよく「ナッパ服精神」という言葉を口にした。「エンジニアだ、工場長だといって、きれいな作業服できれいな手でいたのでは人はついてこないよ。技術者の本分はあくまで現地現物にあるんだ」と教えられた。現地現物で人は学び、人は育つ。これは今日までの私の信条でもある。

(トヨタ自動車名誉会長)

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