豊田章一郎(2)幼少の頃

大勢の親戚、楽しい毎日
師範学校付属小に入学

私は父・豊田喜一郎、母・二十子の長男として、1925年2月27日に名古屋市白壁町に生まれた。父方の祖父は織機の発明王として知られる豊田佐吉である。

当時、佐吉は「官僚外交の前に国民外交がなければならない」という信念から、日中親善の下働きをすると決意。上海に豊田紡織廠をつくり、一時はそこに永住する覚悟だったという。

私の父も家族連れで上海に応援に出かけたが、日本で急用が生じ、帰国せざるを得なくなった。そのまま残っていれば、私は上海で生まれていたかもしれず、そのためか、いつも中国を訪問すると郷愁のようなものを感じる。

佐吉は後に教科書に伝記が載り、日本中の誰もが知る有名人になった。だが、実際の祖父は私が5歳の時に亡くなり、残念ながら祖父についての記憶はあまりない。

ただ、後に知ったところでは、モノづくりに無上の喜びを感じ、いったん発明に没頭すると他のことには手がつかなくなるタイプだったらしい。父の喜一郎がその血を受け継ぎ、自動車開発に情熱を注いだことはこの連載でも随時、紹介したい。

母の二十子は高島屋創業家の1人、飯田新七の娘で、喜一郎と1922年に結婚した。2人は姉の百合子、私、妹の和可子、弟の達郎の順に2男2女をもうけた。

私が生まれた白壁町は、尾張藩の旗本屋敷の白壁が立ち並んでいたのが名前の由来といわれる。都会の中心にあるにもかかわらず、今も閑静で落ち着いた街並みが広がっている。

そのころ白壁には親せきが大勢いた。私の生家である喜一郎邸は新宅と呼ばれ、佐吉邸は本宅、佐吉の娘婿である豊田利三郎邸は別宅と呼び分けていた。利三郎には上から幸吉郎、大吉郎、信吉郎、禎吉郎という4人の息子がいた。私はいとこの彼らと仲がよく、中でも年の近い下の2人とはよく遊んだ。

利三郎は自分の息子たちには厳しかったようだが、甥の私が別宅に遊びに行くと、いつも上機嫌で、「章一郎、よく来た」とニコニコして歓迎してくれた。後に利三郎はトヨタ自動車工業の初代社長になり、父の喜一郎が副社長になった。

近所には中井商店が建てた邸宅があり、一時期、東久邇宮様や賀陽宮様がお住まいになっていた。海軍の水交社の建物もあり、岡谷鋼機の岡谷惣助さんや造り酒屋の盛田家の邸宅もあった。ソニーを創業する盛田昭夫さんは同家の御曹司で、私より4歳年長だった。

小学校は近所の愛知県第一師範学校付属小学校に入学した。師範学校の付属校らしく教生の先生も大勢いた。通学路に金城女学校があり、その校庭を突っ切ると早道できるのでいつもそこを通った。校庭に落ちているテニスボールを見つけて、みんなと遊ぶのも通学の楽しみだった。

私はあまり記憶にないのだが、同級生の話では、あるとき先生に「朝ご飯はだれと食べますか」と聞かれ、「お手伝いさんです」と答えて、みんなに笑われたこともあったそうだ。母は当時体が弱く、父は多忙で普段はめったに顔を合わせない。幼い私は、朝から晩まで働き、家にはほとんどいないのが父親だと思っていた。

(トヨタ自動車名誉会長)

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