豊田章一郎(15)石田退三さん

「自分の城は自分で守れ」
質実剛健のリーダー

トヨタ自動車には時代を画するリーダーが何人もいるが、私が入社した当時の社長の石田退三さんは間違いなくその一人だ。1888年生まれで、旧制中学卒業後、代用教員や家具屋の店員などを経て、繊維業を営む服部商店で商人道を学んだ。店主の服部兼三郎さんは私の祖父・佐吉の良き理解者で、織機をたくさん買ってもらっている。

店主の急逝後、縁あって豊田紡織に入り、その後豊田自動織機製作所に移った。経営者としての力量は並外れ、戦後、豊田自動織機の社長に就任。私の父・喜一郎が経営危機の責任をとって1950年に社長を退いた後は、兼務でトヨタ自工の社長を引き受けてもらった。

トヨタの窮地を救ってくれたのが、当時の日銀支店長の高梨壮夫さんと部下の梶井健一さんだ。自動車産業の裾野は広い。「トヨタの倒産は単にトヨタ1社の倒産にとどまらない。影響は中京地区全体に及び経済は大混乱に陥る」と一万田尚登日銀総裁を説得し、帝国、東海など24行からなる協調融資が成立し辛うじて倒産は回避された。日銀のおかげで会社が存続できた恩を終生忘れず、石田さんは私に「日銀に足を向けて寝てはいかんぞ」と言った。私は今もそれを肝に銘じている。

石田さんはいつも「自分の城は自分で守れ」と言った。爪に火を灯すような努力を重ね、財務体質を強化する一方で必要とあれば巨額投資も即断即決する。トヨタの財務基盤の強化を担った、元会長の花井正八さんは、役員の中で石田さんに一番叱られたのは自分だと回顧している。これはと思う人材に対する石田流の後継者育成法とも言える。

石田さんで面白いのは、経費にはうるさく言う中で大阪への出張は大歓迎だったことだ。商才あふれるお人柄と、商売の街・大阪がうまく共鳴したのだろう。

大阪と言えば、松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助さんと石田さんは非常にウマがあった。

昔はトヨタの大株主会を東京、名古屋、大阪でやっていた。大阪の株主の一人に松下さんがおられ、石田さんとの会話は漫談さながらだった。

ある時、松下さんはこう話した。「3%や5%、コストを下げようと思ってもなかなかできない。そんな中、貿易の自由化を控えて、石田さんから部品の値段を30%落としてほしいと言われた。すべてを白紙に戻し、設計から見直し、やりなおしてみたら、できてしまった。しかも、前より利益があがるようになった。石田さんに礼を言わなならんですわ」。他の大株主もやり取りを楽しみにしていた。

66年に名古屋市で佐吉の「生誕100年記念展」を行い、翌年に愛知県刈谷市で松下さんに記念講演をお願いした。松下さんは「(松下電器の)創業50周年事業として、松下電器の中央研究所の前庭に、エジソンの像を建て、その周りに世界の科学と工業の先覚者10人の胸像を飾る予定で、佐吉翁の胸像もぜひ飾りたい」と語り、会場からは割れんばかりの拍手喝采。翌年私もその除幕式に出席させていただいたが、今も佐吉の胸像は研究所の庭に飾っていただいている。

長らくトヨタの経営に重きをなした石田さんは、まさに質実剛健の経営者だった。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(14)デミング賞

「品質は工程で造り込む」
全従業員が責任、意識改革

戦後、日本のモノづくりは米国ニューヨーク大学のデミング博士の品質管理の教えと欧米製品に謙虚に学び、地道に改善を積み重ね、品質を向上させてきた。1951年に日本で創設されたデミング賞は日本の産業が国際競争力を高めていく過程で、組織を鍛え、人を育て、モノづくりの心を育てる「産業人の指針」となってきた。デミング博士は日本のモノづくり産業の恩人と言える。

トヨタは早くから統計的品質管理(SQC)を導入したが総合的品質管理(TQC)導入やデミング賞への挑戦は早いとは言えない。61年にグループの日本電装がデミング賞実施賞を受賞した。それを見た副社長の豊田英二さんの「騙されたと思ってやってみよう」の一言でTQC導入が決まった。

導入の理由は2代目「コロナ」(60年発売)の失敗にある。流線型デザインや最新の機構などを備えていたが設計や製造の技術が今一つ。タクシーなどで酷使されると耐久性にも懸念が残った。

クラウン発表以降の発展とは裏腹に従業員の教育不徹底、管理者の力不足、連携の悪さなど、足並みをそろえて克服しなければならない多くの課題があった。東工大の水野滋先生、東大の石川馨先生や朝香鐵一先生をはじめTQCの権威に講演や指導を頂きながら、全社で取り組んだ。

62年7月からはその推進成果を踏まえ、全役員と水野先生による全社監査を半年ごとに実施した。さらに、63年1月には経営の基本方針、長期方針、年度方針によって全社に徹底を図った。

64年9月、豊田英二さんを本部長、梅原半二さんと私の両常務を副本部長とするQC推進本部が設置され、中川不器男社長から、1年以内にデミング賞実施賞に挑戦せよと言われた。

翌65年5月にデミング賞への挑戦を表明した。石田退三会長はトップ審議の席で、「QCは楽をして儲けるやり方です」との先生の説明に、「それなら、ぜひやらせていただきます」と答えた。その年の10月、無事受賞することができた。

この取り組みによって、社内風土は変わった。自分の工程に責任を持って良いものを造り、後の工程には不良品を送らない「品質は工程で造り込む」との考えが、隅々にまで浸透した。現在では「自工程完結」との言葉で表されている。すべての従業員が責任を持つという意識改革が進んで製品の質は向上し、成果は64年に発売した3代目「コロナ」で大きく花開いた。

原価意識もゆきわたり、管理手法や人間関係も一層良くなり、全社で1つの目標に向かって協力していく体制を実現できた。こうした取り組みを定着させるために「オールトヨタで品質保証」を掲げ、創意くふう提案やQCサークルも活発になった。その後、多くのグループ企業や仕入れ先などが、デミング賞を受賞している。

21世紀に入りインドや東南アジアのモノづくり企業が次々とデミング賞に挑戦し、競争力を向上させている。世界のモノづくり競争の絵が大きく変わりつつある中、日本は良いものを安くつくるモノづくりの原点に立ち戻り、地道に汗をかいて努力していくことが大切だ。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(13)初の海外出張

トヨタ車を育てた米国
失敗教訓にコロナで再挑戦

前回書いた元町工場の建設に先だって、私は1957年9月から3カ月間、藪田東三さん(元常務)と2人で欧米に出張した。これが初めての海外出張だ。最初に行った欧州では、新工場建設に備えて欧州メーカーの工場を見て回った。独フォルクスワーゲン(VW)の工場では、「何を見ても何を写真にとっても構いません」と驚くほど寛容だった。日本メーカーなど、眼中になかったのだろう。

ルノー公団のパリ郊外にある最新鋭のフリン工場は翌年、元町工場を建設するのに大変役立った。

その後、米国へむかった。当時の米国では「ビートル(カブトムシ)」と呼ばれたVWの小型車の人気が急上昇し、米ビッグスリーも警戒感を強め、外国車排斥の機運もあった。

トヨタ自販の神谷正太郎社長とトヨタ自工の石田退三社長が「このままだと米国市場に永遠に入れなくなる」と危機感を募らせ、8月に「クラウン」を米国にサンプル輸出した。その車の走行テストが主な仕事だった。

クラウンでニューヨークからワシントン、ボストン、デトロイトをぐるりと回り、途中、デトロイト近郊のフォード本社の前で車をとめた。

フォードではその7年前に、豊田英二さんや齋藤尚一さんが数カ月間、研修している。英二さんは「フォードは、トヨタが知らなかったことはやっていなかった」と言って、生産設備の近代化を強力に進めた。齋藤さんはフォードのサジェスチョンシステムを参考に、トヨタ独自の創意くふう制度を作っている。

テストドライブで私たちも「これならいける」と報告し、クラウンの輸出が始まった。しかし、それは、非常に浅はかなテストだった。

お客様から苦情が殺到し、米国のハイウエーを走るには馬力が足りないと怒られた。「数珠つなぎの車列にクラウンが合流するのは危険だ」と言われ、「ロサンゼルスでは下り坂の入り口からしかハイウエーに入れない」とも言われた。そこで、米国でクラウンの販売は中止した。

ハイウエーを何十時間も連続で走る米国へ、十分に試験せずクラウンを持ち込んだことは大きな失敗だった。貴重な教訓とし、「何としても性能・品質面で世界に通用する乗用車をつくる」との目標を掲げて挑戦を続けた。

64年のことだが、ニューヨークでソニーの井深大さんや盛田昭夫さんとたまたま一緒になり、その頃ちょうど開かれていた世界博覧会の会場へ向かうことになった。米国通の盛田さんから「米国に輸出するには、もう少し大きなエンジンで、しかも人気のオートマチック・トランスミッション(AT)をつけた車がよい」とアドバイスを頂いた。

ちょうどトヨタも、クラウンの発売中止から6年後の66年から、クラウンより小さい「コロナ」にクラウンの大きなエンジンを積み、AT車で再挑戦することにしていたので自信がわいてきた。コロナは幸い米国のお客様に好評を博し、その後、トヨタ車の輸出は急速に増加した。トヨタ車を育ててくれたのは米国と米国のお客様だ。感謝の気持ちを今も大切にしている。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(12)元町工場

建設委員長やり遂げる
技術者として成長実感

昭和30年代に入って、日本経済の復興が本格化すると、トヨタでも新工場建設の話が持ち上がった。当時トヨタの工場は戦前に父・喜一郎がつくった本社工場しかなく、本格的な乗用車時代の到来には対応できない。そこで石田退三社長が新工場の建設を決断し、30歳を少し超えたばかりの私が建設委員長の大役に任じられた。

当時、日本の自動車の生産台数は年間合計18万台で、乗用車は5万台にすぎなかった。乗用車需要は増えつつあったとはいえ、市場の行方は必ずしも定かではなかった。

そこに、トヨタの売上高120億円の約5分の1に相当する総工費23億円で、年産6万台規模の乗用車を専門に造る「元町工場」を建てようというのだから、まさに社運をかけたものだった。

1958年9月18日、地鎮祭が行われた。私は石田さんの期待に応えるべく、全力をあげて建設に取り組んだ。旧東海飛行機の工場跡の荒れ地をブルドーザーでならし固めるところから着手し、不順な天候の中でも工事を進めた。

初めての乗用車専門工場なので難問が続出した。大林組や伊藤工務店をはじめ、設備、機械の関係会社と互いに知恵を絞りあい、ひとつひとつ解決していった。

建設中は石田さんに経過報告を、英二さんら幹部には何かと相談にいった。石田さんは「順調でなによりだ」、英二さんたちからはアドバイスはもらったが、最後は「君が責任者だから思ったようにやればいいよ」と言うだけ。「何とか自分の手で仕上げるぞ」と闘志がわいた。突貫工事が続けられ、当初予定通り59年7月末に完成した。建設費も節約と工夫を重ねて計画通りに収めることができた。

8月8日、第1号車がラインオフし、地鎮祭から1年後の9月18日に工場の完成披露式典が行われた。竣工パーティーの席では、「この立派な新工場は、喜一郎さんの嫡男章一郎君以下若い人たちの努力で完成したことを、心から喜ぶものです」と石田さんが私を持ちあげてくれた。

私は、石田さんをはじめ幹部が私たちを信じて任せきり、温かく見守ってくれたことが何よりもうれしかった。人を信じてまかせきることは、難しいことだ。つい口を出し、おせっかいしたくなるのが人情で、大変な忍耐と勇気を要するものだ。

英二さんは後から振り返って「新工場は極端な言い方をすればいちかばちかの賭けであり、失敗すれば経営不振に陥っただろう」と述べている。その後モータリゼーションが到来し、トヨタが一歩抜け出せたことを考えると、石田さんや英二さんの先見性や決断力、度量の広さに改めて感心するとともに、私も技術者として一皮むけたと思っている。私は、元町工場の初代工場長も仰せつかり、工場経営も担当させてもらった。

新工場は元町工場と名付けられたが、これは実は地名ではない。石田さんの指示で京都の建勲神社へ私の部下の吉田弘さんが工場名をおうかがいに行き、「元町工場」の名前をいただいた。トヨタグループも佐吉の元・町工場から出発した。創業の原点を忘れず、今後の会社の発展の礎、つまり「元」となる工場。この2つの思いを込めて「元町工場」と命名された。ちなみに今の工場の住所は豊田市元町1番地だ。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(11)クラウン

生みの親中村健也さん
技術者の情熱・姿勢に学ぶ

1955年、「トヨペットクラウン」とタクシー用の「トヨペットマスター」の生産が始まった。父・喜一郎の目指した本格的な国産乗用車のラインオフ式で豊田英二さんがクラウン、そして齋藤尚一さんがマスターのハンドルを握った。その光景は、感動とともに、今でも私の脳裏に鮮明によみがえる。

当時のトヨタには資金の余裕もなく、失敗すれば経営は再び苦境に陥る。文字通り背水の陣で開発を進めた。幸い当時の国産愛用の機運の中で、お客様に好評を博し、販売店の努力と相まって、順調に販売が伸びていった。

クラウンの開発責任者が、中村健也主査だ。どこか、映画スターのユル・ブリンナーに似た、日本人離れした顔立ち。父が自動車雑誌に書いた文章に共感して、クライスラー車の組み立てをしていた共立自動車を辞め、38年にトヨタに入社した。

英二さんと同い年で、車づくりでお互い一脈通じるところがあったのか、大変仲が良かった。私も弟のようにかわいがってもらい、色々と指導してもらった。

クラウンの開発で新設した主査制度が、今のチーフエンジニア(CE)の始まりだ。エンジンや足回りではなく、乗用車のボディーをつくった経験を持つ人は社内にあまりいなかった。

そこで、トヨタに入る前にその知識・経験を十分に得ていた中村さんに英二さんが白羽の矢を立てた。

主査は車両開発の責任者だが、人を使うという実質の人事権はない。自分の思うように仕事を進めるために、どこへでも行く。特に若いエンジニアに対しては自分の考えを示し、彼らを督励した。

中村主査の姿勢は、今でも忘れられない。販売店やタクシー会社を徹底的にまわり、米国車ほど大きくなく、欧州の大衆車よりも小さくない、日本人にあった車格とスタイル、観音開きのドアなどの構想を練り上げていった。

一方で、世界中の乗用車を自ら運転して、乗り心地の良さを追求した「独立懸架」「三枚バネ」「ハイポイド・ギヤ」といった、画期的な新技術や新しい機構を次々と採用していった。「何事も安全第一でやっていては、技術の向上はないし、他社よりも先に行くことはできない」という、彼の技術屋魂を私もよく聞かされた。

その後も独創性と果敢な実行力で、「コロナ」や「センチュリー」といった数々の新型乗用車の開発に挑戦した。車を知るために自分でよくドライブし、「日本の道はほとんど走ったが、車を調べるために走っているのだから道しか知らない」と言っていた。

合理主義を強く持った人でもあった。中村さんは雨でも傘をささず、両手を体の側面にピタリとくっつけて歩く。「手を振ると、袖までぬれる。手を振らなければ、肩しかぬれない」。得意げに私に説明してくれた。

中村さんの主査としてのやり方が骨格となり、CEの制度が段々と築き上げられ、それがトヨタの特徴となり財産にもなった。初代クラウンとともに主査中村健也は、いつまでも私の心に残る技術者だ。

いかに情熱をもって仕事に取り組むか。そのような精神の持ち方の訓練をすれば、私のような若い技術者でも大いに活躍できると思った。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(10)特殊研究

「何でもやってやる」精神
知恵を出し、良いモノを安く

トヨタに入社した翌年からエンジンを研究する「特殊研究室」などの室長も務めた。金をかけず知恵を出し、良いモノを安くつくることを狙った組織だ。腕に覚えのある元気な若手エンジニアや技能員が集まった。

R型と呼ばれたガソリンエンジンのブロックやクランクシャフトを使い、ディーゼルエンジンをつくろうというめちゃくちゃなことに、仲間と一緒に挑戦した。

ディーゼルは、最高爆発圧力が高い。クランクに力が余計にかかってベキベキと壊れた。もともとエンジンのベースが3軸受けだったのでディーゼル化には厳しかったのだ。対策としてフィレット部にローラーをかけて強くする実験を重ねて、何とかいけそうだということになった。これがC型ディーゼルエンジンで、私を含めた5人で1958年度に第1回日本機械学会賞(製品)をもらったが、成功したエンジンとは言えない。ちなみにホンダの本田宗一郎さんも「オートバイ用ガソリン機関」で第1回の受賞者となった。

小学5年生まで過ごした名古屋・白壁町でご近所だった盛田昭夫さんもソニーの前身・東京通信工業を立ち上げ、田島道治さん、井深大さんと3人で、一緒にエンジンの電子制御式ガソリン噴射装置(EFI)を開発しようと、いらっしゃったことがある。しかし、その後トランジスタラジオが大変忙しくなり先方からの申し出で中止となった。

その約10年後、EFIの実用化にむけた取り組みがスタートしていることを考えると、盛田さんたちは、素晴らしい先見性を持った起業家だったと改めて思う。

エンジン研究以外にも、本社工場で始めた様々な研究を場所を変えて進めた。鉄板を大量にプレスするのは車を大量生産する米国のやり方。少量生産の日本で車を安くつくろうと、節約してコンクリートでプレス型を作ってみた。

別のメンバーと取り組んだのが、ガラス繊維だ。当時は日本に導入されて日も浅く、製法も稚拙で非常に高価だった。しかし、ガラス繊維は、断熱性や耐食性、防音性も高いので、自動車用材料として活用できる可能性があった。

そこで、繊維強化プラスチック(FRP)を安くつくれないかと、チタンや白金の回転円盤を使って、遠心力でガラス繊維を取り出す研究をやった。どれも成功したとは言えないものばかりだが、「なんでもやってやろう」の精神と、どんな時でも知恵を出して、良いモノを安くつくることの大切さを学んだ。

自動車事業は父・喜一郎のベンチャースピリットから始まった。創業当初、喜一郎がつくった自動車研究所で、フランスから「プー(シラミの意味)」という一人乗り軽飛行機を購入し、一等飛行士の片岡文三郎さんに入社してもらって羽田で飛ばしているのを見たことがある。

仕事には役に立たないと研究は中止したが、その後、オートジャイロ(ヘリコプターの一種)の研究をしばらく愛知県の刈谷でやった。父には「空はヘリコプターで」という夢もあったようだ。創業以来の「なんでもやってやろう」の精神は今も引き継がれ、新材料、バイオ、ロボット、新交通システムなどに取り組んでいる。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(9)結婚・入社

父の道を追いトヨタへ
三井伊皿子家の3女を妻に

父・喜一郎が1952年に亡くなると、私にも公私両面で大きな転機が訪れた。私生活では結婚である。

相手は三井伊皿子家当主の三井高長の3女、博子。東京の歌舞伎座でお見合いし、同年11月にお堀端の東京会館で結婚式を挙げた。

新婚旅行は初日は箱根強羅ホテルに泊まり、2日目は飛び込みで湯河原の温泉に泊まった。ちなみに私は旅行好き。54年に長女厚子、56年に長男の章男が生まれると、母や姉夫婦とも一緒に家族で日本全国を回ったが、飛び込みで宿を選ぶので当たり外れが大きい。

私自身はあまり気にならないのだが、子どもや家内はいい宿だと大喜びし、そうでもない宿だとガッカリする。父親として夫として十分な家族サービスができたかどうか、心もとない。

家内は戦後、財閥解体でさんざん苦労した。そのせいかどうか、自立心が強く、何事も自分でテキパキこなす活発さがある。結婚してすぐに自動車免許を取った。当時は普通車と大型車の区別はなく、その免許を更新してきたので、家内は今も大型トラックを運転する資格がある。

私の祖父・佐吉の妻、浅子は工場から家事までを取り仕切り、佐吉を支えた人だが、昔を知る親せきからは「博子さんは浅子さんにそっくり」とよく言われた。

博子は当時を振り返り、「戦後180度変わった生活にも愚痴一つ言わず、新しい生活に順応していた母の強さ、親戚づきあいを大切に誰からも慕われた豊田の母のあたたかい人柄はどちらも自分にとって大切なお手本でした」とよく口にしている。

名古屋の八事に構えた新居は、ユタカプレコンで建てた住宅だった。

もうひとつの転機は、トヨタ自動車工業への入社である。父の葬儀を行ったすぐ後に、トヨタの石田退三社長の呼び出しを受け、入社を要請された。

父は私を自分とは違う道を歩ませようとしていたが、一方で健康に不安を覚え、「自分に万一のことがあれば、石田さんや英二君に相談しろ」と言っていた。不幸にも予感は的中した。私は石田さんの言葉に従い、52年7月にトヨタに入社した。

最初の肩書は取締役検査部長だが、まだ27歳の若輩であり、業務見習いのようなものだ。事務所にいる時間は少なく、本社のクレーム品の置き場に通って、「これは何が悪くて、クレームがついたのか」を実地で調べた。

あのころは本社と工場の距離も近く、技術や生産の責任者だった英二さんや齋藤尚一さん、大野耐一さんもしょっちゅう現場に出入りしていた。中には靴の底についた工場の油で、オフィスの床を真っ黒に汚す役員もいた。

当時の会社は、今とは随分違う。まずみんな相当に若い。社長の石田さんこそ明治生まれで60歳を超えていたが、専務だった英二さんは40歳前後で、常務の齋藤さんも似たような年だった。

マージャンも盛んで、役員懇親会で温泉へ行っても、湯につからずに、マージャンばかりやって帰ってきたこともある。「こんなことでは、行く意味がない」というもっともな意見が出たため、それ以降、役員懇親会は近場でやることになった。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(8)父の死

社長復帰目前に倒れる
「現地現物で学ぶ」一生の教え

私が企業人人生のスタートを切った1950年、父・喜一郎が社長を務めるトヨタ自動車工業は重大な危機に直面していた。49年に財政金融の引き締め政策であるドッジ・ラインが発動され、日本経済は不況色を強めた。トヨタでも月賦販売で大量の焦げ付きが発生し、資金繰りは日増しに厳しくなった。

喜一郎は、「人は切らない」と頑張ったが、それが通用する時代ではなかった。トヨタもついに希望退職を募り、労組はストライキに突入した。喜一郎は隈部一雄副社長とともに、混乱の責任を取る形で50年6月に退任、7月18日の臨時株主総会の結果、豊田自動織機の社長である石田退三さんのトヨタ社長兼任が決まった。

私はこの総会に株主の一人として出席し、一番後ろで事態を見守っていた。石田さんは演説の最後に「粉骨砕身して会社の業績好転に努力し、必ず各位のご期待に添うことを得ました暁には、再び豊田喜一郎氏を社長にお迎えすることを、前もって、皆様にご承認置き願いたいのであります」と涙ながらに訴えた。

国産車にかける喜一郎の夢と情熱がなければ、トヨタという会社はこの世にない。それを知る石田さんの熱い言葉に会場は静まりかえった。

父はその後、東京に小さな研究所をつくり、小型エンジンの研究などに取り組んだ。石田さんは上京すると必ず父を訪ねたという。トヨタの業績も朝鮮特需で見違えるように回復しており、総会での言葉通り、父に社長復帰を働き掛けたのだろう。

だが、父も頑固だ。当時トヨタは乗用車の生産はごく少数で、トラック専業会社の体だった。社長復帰の話にも「乗用車も作れない企業に興味はない」と固辞したが、最後は折れて52年7月の社長復帰が内定した。だが、好事魔多し。この年の3月、高血圧の発作に倒れ、57歳で亡くなった。父の早すぎる死は私の人生にも様々に影響したが、それは次回以降で語りたい。

経営者としての父の歩みを私なりに振り返ると、いくつか特筆すべき点があると思う。その一つは国際性だ。1929年の欧米出張で乗用車市場の巨大さを知ると、即座にフォードやシボレーと正面から競合する大衆乗用車づくりを決意している。「日本のような遅れた国で乗用車は無理」といわれた時代の常識にとらわれず、日本人の頭と腕による大衆車に挑戦した。

2つ目はスピーディーな決断と実行である。自動車参入を決めると、さっそくシボレーを買って分解し、すべての部品を原寸大でスケッチする作業を開始した。同時に部下に全国の部品や素形材の企業を回らせて、部品調達にも手を打っている。目標を決めると、一気呵成にゴールめざして真っすぐ駆けていく。そんなスピード感がある。

そして、最後に現場の重視。若かった私に父はよく「ナッパ服精神」という言葉を口にした。「エンジニアだ、工場長だといって、きれいな作業服できれいな手でいたのでは人はついてこないよ。技術者の本分はあくまで現地現物にあるんだ」と教えられた。現地現物で人は学び、人は育つ。これは今日までの私の信条でもある。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(2)幼少の頃

大勢の親戚、楽しい毎日
師範学校付属小に入学

私は父・豊田喜一郎、母・二十子の長男として、1925年2月27日に名古屋市白壁町に生まれた。父方の祖父は織機の発明王として知られる豊田佐吉である。

当時、佐吉は「官僚外交の前に国民外交がなければならない」という信念から、日中親善の下働きをすると決意。上海に豊田紡織廠をつくり、一時はそこに永住する覚悟だったという。

私の父も家族連れで上海に応援に出かけたが、日本で急用が生じ、帰国せざるを得なくなった。そのまま残っていれば、私は上海で生まれていたかもしれず、そのためか、いつも中国を訪問すると郷愁のようなものを感じる。

佐吉は後に教科書に伝記が載り、日本中の誰もが知る有名人になった。だが、実際の祖父は私が5歳の時に亡くなり、残念ながら祖父についての記憶はあまりない。

ただ、後に知ったところでは、モノづくりに無上の喜びを感じ、いったん発明に没頭すると他のことには手がつかなくなるタイプだったらしい。父の喜一郎がその血を受け継ぎ、自動車開発に情熱を注いだことはこの連載でも随時、紹介したい。

母の二十子は高島屋創業家の1人、飯田新七の娘で、喜一郎と1922年に結婚した。2人は姉の百合子、私、妹の和可子、弟の達郎の順に2男2女をもうけた。

私が生まれた白壁町は、尾張藩の旗本屋敷の白壁が立ち並んでいたのが名前の由来といわれる。都会の中心にあるにもかかわらず、今も閑静で落ち着いた街並みが広がっている。

そのころ白壁には親せきが大勢いた。私の生家である喜一郎邸は新宅と呼ばれ、佐吉邸は本宅、佐吉の娘婿である豊田利三郎邸は別宅と呼び分けていた。利三郎には上から幸吉郎、大吉郎、信吉郎、禎吉郎という4人の息子がいた。私はいとこの彼らと仲がよく、中でも年の近い下の2人とはよく遊んだ。

利三郎は自分の息子たちには厳しかったようだが、甥の私が別宅に遊びに行くと、いつも上機嫌で、「章一郎、よく来た」とニコニコして歓迎してくれた。後に利三郎はトヨタ自動車工業の初代社長になり、父の喜一郎が副社長になった。

近所には中井商店が建てた邸宅があり、一時期、東久邇宮様や賀陽宮様がお住まいになっていた。海軍の水交社の建物もあり、岡谷鋼機の岡谷惣助さんや造り酒屋の盛田家の邸宅もあった。ソニーを創業する盛田昭夫さんは同家の御曹司で、私より4歳年長だった。

小学校は近所の愛知県第一師範学校付属小学校に入学した。師範学校の付属校らしく教生の先生も大勢いた。通学路に金城女学校があり、その校庭を突っ切ると早道できるのでいつもそこを通った。校庭に落ちているテニスボールを見つけて、みんなと遊ぶのも通学の楽しみだった。

私はあまり記憶にないのだが、同級生の話では、あるとき先生に「朝ご飯はだれと食べますか」と聞かれ、「お手伝いさんです」と答えて、みんなに笑われたこともあったそうだ。母は当時体が弱く、父は多忙で普段はめったに顔を合わせない。幼い私は、朝から晩まで働き、家にはほとんどいないのが父親だと思っていた。

(トヨタ自動車名誉会長)

豊田章一郎(1)創業の精神

「創造、挑戦、勇気」胸に
モノづくり通じ社会に貢献

今日のトヨタ自動車とトヨタグループは、私の祖父・豊田佐吉の織機の発明に始まる。佐吉は貧しかった日本を豊かにしようと、織機の発明に一生をささげた。幾多の失敗にもめげず、レンガを一つひとつ積みあげていくような努力を重ねた。そして、息子の豊田喜一郎や部下たちは力を合わせて、大正末期にG型自動織機を完成させた。

この織機の特許を当時世界一と言われた英国の繊維機械メーカー、プラットブラザーズ社に10万ポンドで譲渡した。

英国のサイエンス・ミュージアムに、ワットの蒸気機関など世界の産業史を担った数々の機械と共に10数年前からG型自動織機が恒久展示されている。私が訪問した時、織機のガチャガチャと動く音を聞いてたくさんの人が集まってきていた。社会のお役に立ち世界で認められた織機を眺めながら、祖父や父の志や心が改めてしのばれ、感慨一入のものがあった。

私は半世紀以上トヨタ自動車の経営に携わり、様々な難局にも直面してきたが、そのたびに、判断・決断・実行のよりどころとしてきたのが、「豊田綱領」だ。これは、グループ各社に今日まで脈々と受け継がれて来ている。

「上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし」「研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし」など、5つからなる綱領は直接佐吉の薫陶をうけた人々により遺訓としてまとめられ、1935年、佐吉の命日に発表された。豊田自動織機製作所ではすでに、33年末に自動車事業への進出を決断し、迅速に準備を進めていた。現在のトヨタ基本理念も創業の精神に立ち返り、一致団結して事業に挑戦しようという企業姿勢を表している。

私がトヨタ自動車の社長に就任した時も、モノづくりを通して社会のお役に立つという経営の原点に立ち、「創造、挑戦、勇気」の3つを大切にして、愚直に汗をかいて経営を進めてきたつもりだ。失敗を恐れていては、前進はない。モノづくりには高い理想を掲げ、「論より実行」と最後までやり抜く勇気が何よりも大切だと思っている。

自動車は生まれて既に100年以上がたつが、世界規模で需要は拡大している。そうした産業に携われたことは大変幸運だと思っている。しかし、「企業の繁栄は30年」という経験則もある。この先、トヨタが生き残れる保証はどこにもない。

経営の第一線を退いて久しいが、次のトヨタを担う今の経営陣には、グローバル化とイノベーションが進む中で、21世紀の社会と交通のあるべき姿を絶えず考えながら、モノづくりの革新をはかってほしいと切に願っている。

私はいつも前を向いて生きることにしている。89歳となった今も変わらない。だから、「私の履歴書」への執筆を、これまで再三ご依頼頂いたが、私の前に経団連会長を務められた平岩外四さんもお書きにならなかったと、いつもお断りしてきた。

トヨタではこれまで石田退三、神谷正太郎、加藤誠之、豊田英二の4人の先輩が書いている。英二さんは半分まで書いて、残りは機会があれば、また書くと言っていたが、昨年亡くなり、それもできなくなった。私が書かないと次の方が書きにくいだろうと思い、今回筆をとることにした。

(トヨタ自動車名誉会長)