和田勇(5)幼少期のこと

出征した父の故郷へ
自然に囲まれ、野球に熱中

1941年4月29日、今の和歌山県橋本市に生まれた。2歳のとき、県北部の那賀郡上名手村(その後那賀町、現紀の川市)に家族で転居する。山あいの集落。周囲は木々と田畑ばかり。のどかだった。

山を下れば西国巡礼33カ所3番札所の古刹、粉河寺。隣の町には、戦国時代に勇猛な武装集団として名を馳せた根来衆の拠点、根来寺がある。有吉佐和子の小説の題材にもなった江戸時代に活躍した外科医、華岡青洲の生誕地にも近い。

父は正明、母は清子。私は三男で、妹がひとり。橋本市で第一生命に勤めていた父が出征し、母は4人の子どもを連れ、父の生まれ故郷、上名手村に引っ越したのだ。終戦後、復員した父も上名手村に戻り、先祖伝来の土地で田畑を耕し、一家を養ってくれた。

私は村立上名手小学校に通った。数年前、創立100周年を迎えた伝統ある学校だ。学年は1クラス50人ほどで2クラス。学校生活は楽しく、成績もそこそこよかったが、熱中したのは野球だ。

和歌山は野球どころで、大人も子どもも野球好きが多く、校庭や空き地で、草野球に興じていた。戦後間もないころで娯楽も少ない。野球が遊びの王様だった。来る日も来る日も、暗くなるまでボールを追いかけた。

ラジオから流れてくるプロ野球中継にも聞き入った。翌朝、新聞で試合結果をもう1度、確かめる。巨人軍の大ファンだった。ラジオと新聞のおかげで、小学校に上がる前から巨人の選手の名前は全部、漢字で読めた。

千葉、白石、青田、そして4番バッターは川上だ。ラジオから流れてくるスター選手たちの活躍に胸を躍らせ、「いつかは、自分も巨人の選手に……」。そんなことを夢見ていた。積水ハウスに入社し、中日ドラゴンズの本拠地、名古屋で仕事を続けることになるが、巨人軍一筋。今もこれだけは頑として譲れない。

野球だけでなく、セミなどの虫や蝶々を追いかけ、野山を駆け巡った。釣りも大好きだった。農業用の灌漑用水のため池はフナ釣りの絶好のポイント。ただ、池の持ち主の目が厳しい。その目を盗んで、竿を垂れるのだが、「コラッ!」という声がすると、一目散にその場を離れる。逃げ遅れるとゲンコツだ。

ところが、どういうわけか私はその頑固なおじさんに気に入られ、見逃してもらった。理由は今も分からない。

遊び回っていると、当たり前のように腹が減る。でも、近くには買い食いする店などない。そこで、ミカン畑からミカンを失敬する。これも見つかればゲンコツだ。そのスリルがまた、楽しかった。

人気の映画館もない町だ。家にも、たいしたオモチャやゲームもない。それでも自分たちで工夫して、日々、おおらかに過ごしていた。いい土地で育ったと感謝している。

5、6年生の担任だった山西國裕先生は、大学を卒業したばかりで、兄貴のような存在だった。当直の日、「よかったら遊びに来い」と言われた。学友と誘いあわせて晩ご飯を済ませてから学校に行って、そのまま泊まって帰ることが何度もあった。幸せな思い出だ。

恵まれた自然と温かい人間関係の中で伸び伸び過ごした日々は、その後の私の人生にさまざまな影響を与えているように思う。

(積水ハウス会長兼CEO)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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