和田勇(29)新たな一歩

目先の利益より信頼
人との出会い、今後も大切に

海外事業は、会計年度2年目で黒字を計上することができた。スピード感を持って事業展開した結果、予想以上に順調に進んでいる。

積水ハウスの強みである環境技術に加え、国民性や歴史、風土に配慮した設計やまちづくりの思想など、質の高い「住環境創造文化」を持ち込み、しっかりと現地に根付かせようとする姿勢が評価され、歓迎されているのだ。

都市人口の急増で中国ではエネルギー問題と直結する住宅の環境技術への期待が高い。私が何度も足を運び中国でも独自のパイプを築いてきた。様々な人々との出会いに支えられながら、自らの目でエリアを厳選し、合弁ではなく「独資」といわれる独自資本による事業展開で着実な成果を挙げている。

米国では各地を視察して、私たちが考えるまちづくりと同じようなコンセプトを持つ開発地に案内された。米国で有名なデベロッパー、ニューランド社が手がけているという。心に響くものがある。

CEOのボブ・マックロード氏と会うことになる。偶然、私と同い年。直感通り、住環境づくりへの思いに互いが共感した。万事、ビジネスライクではなく、義理堅い。ここでも出会いに恵まれた。

現地では「ニューランド社が選んだ積水ハウス」という評判が広がり、提携のオファーも舞い込む。しかし私はマックロード氏との信頼関係を優先させ、目先の利益を追いかけない。米国での事業は特に好成績を挙げている。

海外事業では、ほとんどが人との巡り合いの話になってしまう。将来を考えると、私は「順調な数字」よりも「人との出会い」に大きな価値を感じている。これまでも人との出会いに助けられ、支えられて、今日この日を迎えている。これからも、それは変わることはないだろう。

海外事業は着実な成長が期待できる。環境技術を含めた「積水ハウスの住環境創造文化」が世界で必要とされているのだ。

国内に目を移せば、また違う意味で住宅の役割が重要になっている。私は住宅や住環境は、現代日本が抱えるさまざまな問題と深く関わり、その真ん中に位置していると思っている。

少子化や子どもの家庭教育、女性の社会進出や老人介護といった課題は、家や家族のあり方を抜きにして語ることはできない。コミュニティの再生は犯罪抑止力にもつながる。住宅建設の経済波及効果が日本の成長戦略に大きなインパクトを与える。

積水ハウスに入社し、半世紀近い年月が過ぎた。その間、住宅は進化し続け、存在感が増大した。責任の重さをひしひしと感じる毎日だ。「世のため」という言葉が改めて頭に浮かぶ。これからの住宅にできることは何なのか。

もう30年近く、毎朝約8キロのウオーキングを日課にしている。街を歩き、1軒1軒の家を眺めていると、その奥に見えてくるもの、思い浮かぶことがいろいろある。それは住まいに賭けた私の夢ともつながっている。

そのいくつを実現できただろう。「まだまだじゃないか。もっとやるべきことがある」。自分に語りかける。そして「お客様本位」という言葉を胸に、私は今日もまた、新たな一歩を踏み出す。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(28)会長に就任

海外展開で即断即決
キーマンと直接心通わせる

2008年4月。社長に就いてから、ちょうど10年の節目の年に、10歳若い阿部俊則君に次のバトンを渡して、私は会長兼CEO(最高経営責任者)に就任する。

社長としての10年間、立場は変わっても若いころと同じように挑戦の連続だった。行動の原動力は「前例がないからやってみる」という言葉に集約されるかもしれない。それは会長になっても変わることがない。私は海外進出の先頭に立つことにした。

かつて日本の住宅業界は国内のみで成立するドメスティックな産業だといわれてきた。しかし時代は変わった。日本の工業化住宅の優れた品質、そして何より、積水ハウスが先駆的な取り組みを続けてきた「環境技術」には世界の注目が集まっている。

この年の7月に環境を主要議題に開催された北海道洞爺湖サミットでも、二酸化炭素削減や省エネの最先端の技術を凝縮した「ゼロエミッションハウス」を展示。世界の人たちを驚かせ、その実力を証明した。

海外進出で最初に選んだのは豪州。不動産事業も手がけるバブコック・ブラウンという投資ファンド会社との提携を決め、契約締結のため、私が自ら現地に乗り込んだ。

ところが当日、遅れて席に着いた先方のCEOから耳を疑う言葉が発せられる。「不動産事業から撤退する」。事実上の倒産。銀行管理会社になるというのだ。さすがに戸惑った。ただ、投資家への配当に行き詰まったようだが、所有する不動産の内容はしっかりしている。私は優良物件だけを厳選し、新経営陣から買い取る方針を決めた。

担当者レベルの交渉では、ご破算になっていただろう。海外事業自体も頓挫するか大幅に延期していたに違いない。海外事業では最高責任者の即断即決が重要で、それを実感する場面が何度もあった。

新たな事業パートナーの一人、ペイス社のブライアン・ボイド氏の頼もしい協力も得て、豪州での住宅開発は順調に動き出す。クイーンズランド州のキャンベル・ニューマン首相、イプスウィッチ市のポール・ピサーリ市長には多方面に亘り大変お世話になっている。結局は人間関係だ。目先の利益を追いかけていては相手に見透かされてしまう。

シンガポールでも印象的な出会いがあった。ファーイーストオーガナイゼーション社のCEO、フィリップ氏。初対面の席で私は積水ハウスの環境技術について熱く語った。黙って聞いていた彼は話が終わると大きくうなずき、握手を求めてきた。「心が通じた。この人は信頼できる」。手を握り、私は確信した。

このときも壁にぶち当たる。リーマン・ショックだ。進出の判断は難しかった。彼は「無理はいけない。事業計画を見直しましょう」と伝えてきた。冷静かつ慎重、誠意を感じた。

その後も情報交換を続けた。気軽に誘い合い、何度も食事をともにし、互いのビジネスビジョンも語り合った。現在、同国での大規模プロジェクトに加え、豪州での共同事業も積極的に進めている。

リーマン・ショックと提携先の思わぬ事態でスタートした海外事業。私らしい新たな一歩だった。そして、大市場の中国、米国へ。各地のキーマンと心を通わせることで、海外事業は拡大していく。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(27)世の中のために

未来責任法律に具現化
豊かな住生活実現へ模索

家族とともに何十年も先まで存在する住まいへの「未来責任」。その責任は積水ハウスだけで果たせるものではない。社会全体で取り組むべき課題だ。

2004年、社団法人住宅生産団体連合会(住団連)の会長に就任した。低層住宅を建設する業界団体を中心に住宅設備機器関連まで10団体で構成する全国組織で、約7万4000社が加盟している。

就任した際、私は「住宅業界では良質な住宅ストックの形成が大きな課題。住宅の性能向上に関する多様なニーズに応え、豊かな住生活の実現につながる活動を進めたい」と挨拶した。

業界の代表としてだけでなく、住まいづくりに関わり続けてきた人間として積極的に発言し、行動した。政治にも働きかけた。大きな成果は、06年6月に施行された住生活基本法。「良質な住ストックの形成」と「住宅の性能向上」「豊かな住生活の実現」につながる画期的な法律である。量の確保から質の向上へ、国の住宅政策の大転換となった。

同法の施行で国や地方自治体は国民に安全、安心な住宅を供給する義務を負い、住宅業界も重い責務を課せられた。まさに私が訴えてきた「未来責任」だと自覚した。

先ごろ決定された消費税増税の是非に関しての論評はここでは控えるが、住宅と税制の関係にも持論を唱えた。日本では住宅取得を「消費」とする考え方から一律に消費税が課せられている。

しかし、住宅は社会資本であり、消費するものではない。「資産」という観点から固定資産税が課税されている。土地には消費税は課せられない。大きな矛盾を感じる。不動産取得税との重複課税も日本特有の不可思議な制度だ。

会長に就いたころ、耐震偽装問題が世の中を騒がせ、多くの国民に業界への不信感や不安感を与えていた。その後、消費者保護を目的とした住宅瑕疵担保履行法が制定される。私は衆議院の国土交通委員会で参考人として意見陳述するなど、「住宅の性能向上」について発言を続けた。

こうした経験から、積水ハウスの不変の姿勢「お客様本位」は、大きく言えば「世のため」ということなのだと考えるようになっていた。

07年にはNPO法人「キッズデザイン協議会」の発足とともに会長を引き受けた。子どもが安全かつ感性豊かに育つ。子どもを産みやすく育てやすい。そういう社会をデザインを通じて整備することを目指している私は「世直しにもつながる素晴らしい活動だ」と共鳴して、ライフワークのつもりで取り組んでいる。

住宅や日用品から公的施設、まちづくりまで、対象は無限。子どもたちが安心して利用でき、子育てが楽しくなるようなデザインの製品やサービス。それらを増やし、社会環境や文化のあり方を豊かに変えていくと、日本はもっと生き生きとした社会になる。優れたデザインの表彰も行っており、今年から最高賞に内閣総理大臣賞を設けていただいた。

「世のため」とは気恥ずかしいが、企業は決してこれを忘れてはいけない。むしろ、すべての企業活動のスタート地点だと思っている。社長になって10年近い歳月が流れ、私は、次の「世のため」を模索し始めていた。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(26)環境未来宣言

持続可能社会築く責任
消費エネルギー削減で目標

「住まいは生態系の一部であり、家族にいちばん近い地球環境である」。1999年、積水ハウスは「環境未来宣言」を発表し、すべての企業活動の基軸に「環境」を据えると社会に約束した。

97年に京都議定書が採択され、二酸化炭素(CO2)削減など環境問題への関心が高まっていたが、住宅メーカーの意識は省エネや太陽光発電への取り組み程度。企業活動そのものからの具体的なアクションは見られなかった。

「住宅メーカーが何を大層なことを」。そんな声も聞こえてきた。しかし私は、家族とともに何十年も先までこの地球上に存在する住まいが「環境」に目覚めることで、社会に将来、大きなプラスを与えると考えていた。

「住まいを変えて、社会を変える」。私は「未来責任」という言葉を繰り返し口にした。住まいづくりは今日明日のことだけを考えていてはいけないということだ。

とはいえ、環境保全型企業への転換は簡単ではない。住宅業界は建築資材をはじめ資源消費型産業だ。日々の生活にも多大なエネルギーが必要だ。日本では住まいは古くなったら建て替えるという意識も根強い。環境未来計画では、住宅の建築から廃棄までの消費エネルギー、廃棄物削減の目標を設定。社会資本としての耐久性向上を強調した。

環境面の社会貢献活動にも積極的だ。地域の気候風土に適した樹木を庭に植える「5本の樹」計画もそのひとつ。3本は鳥たち、2本は蝶たちのために。その数はすでに1000万本近くになる。

この木々に多様な生き物が集まり、庭が小さな里山になる。点から線へ、面へ。まち全体が郊外の自然とつながり、あらゆる生き物たちが喜ぶ生態系を再生させるのだ。

本社のある大阪・梅田の「新梅田シティ」には、「新・里山」を誕生させた。夏休みごろには棚田に水生昆虫が集まり、夕方からはカエルの大合唱。日本人の原風景が都会の真ん中に現れたわけだ。

「今の子どもは、お茶は最初から飲み物だと思っているんです」。そんな話を聞いて、すぐには意味が理解できなかった。茶畑も茶葉も知らない子どももいるらしい。お茶といえばペットボトルなのだ。そこで、茶摘みの体験もできるようにした。

田植え、稲刈り、野菜の収穫……。里山は食育の基本を学ぶ場にもなる。将来のサステナブル(持続可能)社会を支えていくのは、自然の素晴らしさ、その恵みの尊さを知った子どもたちにほかならない。先ごろ、「新・里山」に絶滅危惧種のミゾゴイという渡り鳥の飛来が確認された。世界に1000羽ほどしか生息していない幻の鳥らしい。人知の及ばない自然の営みを見守り続けたい。

こうした取り組みが認められて2008年、環境省から「エコ・ファースト企業」に認定された。商品開発も進化を続けている。生活時のエネルギー収支ゼロを目指す「グリーンファーストゼロ」が戸建住宅の受注比率の5割を超えた。先進の省エネ、創エネ性能を備えた従来の環境配慮型住宅を加えれば8割以上が環境配慮型になっている。

環境をテーマにした「未来責任」。住まいやまちなみは歳月の経過とともに美しくなる。「経年美化」という新しい考え方も訴え続けている。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(25)グループ再編

構造改革、企業価値守る
リフォーム事業、成長の柱に

財務体質の健全化に目処をつけた私は、次の改革に着手する。グループ会社の組織再編だ。筋肉質になった積水ハウスをよりたくましく、強い会社にするのだ。

2001年、各地域に残っていた4つの販売会社を吸収合併した。さらに05年、好調な賃貸住宅事業「シャーメゾン」の物件管理や一括借り上げ保証を地域密着型で展開していた積和不動産6社を完全子会社化した。うち5社は上場企業だった。株主にはそれぞれの主張、思惑がある。さまざまな抵抗もあり難航したが、実現させた。

新築市場の大きな拡大は望めない。私は今ある“財産”の活用が新たな成長の柱になると考えていた。いわゆるストックビジネスだ。その際、積和不動産の全国規模の情報網が生きてくる。グループの連携強化のために、完全子会社化は不可欠だった。

現在、人員配置や物的資源の配分の最適化で、管理業務からさらなる利益を生み出す構造ができている。

上場企業の中には積水ハウスの持ち株比率が30%程度の会社もあった。有名企業の株買い占め騒ぎが相次いでマスコミを賑わすのはその後のことだが、危機感はあった。先手を打つことで、グループ全体の高い企業価値を守ることができた。

この結果、グループ企業として、短期の損益に左右されることなく、中長期の目標を持てるようになった。賃貸住宅のオーナー様にもより安定的な収入を約束できるようになった。そうした追い風も受け、賃貸アパート「シャーメゾン」の成長は加速する。

もうひとつのストックビジネスの柱に、リフォーム事業がある。いい家を壊さずに長く住み続けることは、循環型社会にも貢献する成長分野だ。ただ、リフォームは営業、施工体制や収益構造が住宅建設とは異なる。円滑な事業推進には、専門機能を持った分社化が必要なので、04年9月に完全子会社の積水ハウスリフォームを創設した。

当時、住宅営業では女性社員を大幅増員していた。リフォーム営業では、それ以上に女性社員の比率を増やした。リフォームは明確なプランというより、漠然とした希望や日常の不満、細部のトラブルから話がスタートすることが多い。そうした声を親身になってお聞きする女性の「相談力」に期待した。

積水ハウスは早くから「生涯住宅思想」を住まいづくりに取り入れ、「いつもいまが快適な住まい」をお届けしてきた。構造、デザイン、快適性。高い質を備えていても、年月の経過とともに家族の暮らし方も、趣味趣向も変化する。それに応え続けるのが私たちの仕事だ。

生涯にわたるお付き合い。言うのは簡単だが、たやすいことではない。「もう寿命ですから、建て替えた方がお得です」。そんなことは絶対言えない。「お客様に迷惑をかけてどうする」と田鍋さんの声が聞こえる。グループ会社の再編も、決して効率至上主義の企業の論理に陥らないことを第一に考えた。

住宅メーカーは健全な経営状態で存在し続けることが、お客様の安心につながる。家を建てた会社がなくなったり、信頼できなくなったりしたら、途方に暮れるしかない。そのための構造改革にゴールはない。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(24)バブル崩壊の傷

特損処理早急に決断
質を堅持し、コストを削減

社長就任以来、社員に自信と希望を持つことの大切さを訴え続けた。その手応えも感じ始めていた。しかし、意識改革だけではどうにもならない問題もある。積水ハウスには未来ばかりを語っていられないバブル崩壊の傷が、そこかしこにあったのだ。

それはIR説明会でのことだった。販売用に購入した土地の含み損に関して厳しい質問が相次いだ。確かに地価は軒並み下落していた。しかし、住宅販売に大きな陰りはなく、社内では再び地価も上昇し、含み損は解消するとの楽観論が主流だった。

私は数字を精査して「これは危ない」と思った。財務の専門家の観点とは違う、営業的な直感のようなものだ。「自分の目で、その土地を見てみよう」と動き出す。分厚い資料より現地だ。主に都市部にある購入地を1年かけて入念に見て回った。その間にも地価は下がり続け、景気の減速もはっきりしてきた。

「負の遺産は早めに処理して、財務体質を強くしよう」。私は腹を固めた。傷を抱えたままで、社員に未来は語れない。そんなことはしたくない。そして「今、決断して健康的な筋肉質の会社にしよう」と役員会で熱弁を振るった。しかし、反応はない。

リスクはあるが、私が全責任を負う覚悟でやり切るしかない。役員会閉会後の営業本部長会で、「私の判断が間違っていたら、この本部長会が私の送別会になるかもしれないな」と話した。緊張をほぐすつもりだったが、みんなの顔はこわばったまま。

販売用土地の評価損は2165億円。これを2000年1月期で計上することを会見で発表した。驚きの声が上がる。質問も相次ぐ。バブル崩壊後の地価下落に伴う、そこまでの財務リストラは産業界で前例がない。翌日のマスコミや市場の反応が気になって眠れなかった。しかし、それは杞憂に終わった。

「思い切った特損処理」と一定の評価を得て胸をなで下ろしたものの、問題は山積している。時価会計の適用により、固定資産や有価証券の評価損も計上する必要がある。02年1月期には固定資産1355億円、有価証券262億円を計上し、加えて、退職金給付債務の積立不足額568億円も償却することを決めた。

積水ハウスは上場以来初めての赤字決算となった。しかし、手遅れになる前に病巣は取り除けた。一方で、徹底して取り組んでいたコストダウンも順調に成果を上げている。社内の雰囲気も変わり始め、株価も安定してきた。後はさらなる収益力の向上だ。

日本経済はデフレ不況に突入し、住宅業界でも価格破壊ともいえる現象が起きていた。私はさらなるコストダウンを指示した。価格競争のためではない。積水ハウスはあくまでも住まいの質にこだわり、「中高級路線」を堅持する。その基本姿勢を変えることはなかった。

さらに、経営基盤をより盤石にするため、グループ全体の機能強化が新たな課題だと考えた。01年には累積建築戸数が150万戸を超えていた。戸建の新築だけでなく、このストックを活かして新たなビジネスチャンスをつくり出す。そういう将来像を実現するには、グループ会社の連携を密にすることが重要だ。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(23)社長に就任

「お客様本位」を再確認
本社にCS推進部を創設

阪神大震災後、専務を経て、代表取締役社長のバトンを渡されたのは1998年4月。3代目社長の奥井功さんは会長に就任された。積水ハウスで初めての生え抜き社長になる。新入社員として名古屋営業所に配属された日から33年が経っていた。文字通り、身が引き締まる思いだった。

就任の記者会見で「CS(顧客満足)を高めることが究極の目標」と強調した。「お客様本位」の徹底追求だ。そして、「社員が働きやすい環境にするのが私の役目です」と語った。時代の動きを見据えた「環境企業」への施策など、アピールしたいビジョンはたくさんあったが、まず、お客様と社員のための取り組みをいちばんに宣言した。私たちの原点の再確認だ。

「人間愛」を根本哲学とする積水ハウスにとって「お客様本位」は、創業以来、一貫した姿勢である。ずっと営業の現場を歩み続けてきた私を突き動かす力となっている考え方でもある。それを改めて全社に徹底させたいと考え、本社にCS推進部を創設した。

バブル崩壊後の長引く不況の中、積水ハウスは一丸となった企業努力により、競争力を高めていた。堅調な業績を支える大きな柱が「紹介営業」だった。その比率は新規契約の約5割。「お客様の満足がお客様を呼んできてくれる」。それは私の実体験とも重なる。

「CS推進の基本のひとつは、お客様からのクレームへの誠実な対応」ということを、全国の営業本部、支店を回り、繰り返し説き続けた。

私は住宅産業がクレーム産業だということを、いやというほど実感してきた。クレームは新たなニーズの宝庫であることも知っていた。それを訴え続けたのだ。

さらに社員が働きやすい環境づくりを宣言した。前にも書いたが、「部下は上司を替えられない。だが、上司は部下を替えられる」のだ。各部署の管理職に、そのことを膝を交えて話した。

厳しい時期には社員に厳しい要求をしなければならない。だからこそ、上司は部下に目を行き届かせ、風通しのいい組織づくりに努める必要がある。タテ割りの垣根を取り払う組織と意識の改革もさらに推し進めた。

そのころ、「少子高齢化」という言葉が日々、マスコミで語られるようになっていた。それはそのまま、将来の日本の人口減を意味する。住宅着工件数も減少傾向を示し始めていた。住宅産業は斜陽産業と見る向きもあった。

しかし、私は意に介さなかった。「総数が減っても、シェアを伸ばせばいい」のである。単純な話だ。この意識を社員にしっかりと植え付け、「シェア10%獲得」を共通の目標に掲げることで、社員の目を未来に向けさせた。

この連載で、若いころの失敗談を書いてきた。10年後、20年後、ポケットいっぱいの失敗談は財産になる。挑戦し続けることで未来は開けることを、今の若い人たちに伝えたいからだ。肩書や責任が重くなるにつれ、大きな失敗は許されなくなる。それでも現状に安住するのは、後退を意味する。やはり挑戦だ。

おもしろおかしいエピソードは少なくなるけれども、社長就任後も、私なりのやり方で、若い日と同じように、やれることはなんでもやった。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(22)阪神大震災

1軒1軒回り安否確認、
「災害に強い家を」心に刻む

1995年1月17日。この日は多くの人と同じように、私にとっても生涯忘れられない日になった。

ちょうどこの日は、大阪の本社で役員会が開かれる予定だった。私は名古屋の自宅で大阪行きの支度をしているとき、強烈な揺れを感じた。しかし詳しい状況はわからない。JR名古屋駅までは行ったが、新幹線も在来線も止まっていた。なんとか近鉄電車に乗り込んだ。大阪に着いたのは夕方だった。

本社では緊急対策に動き出していた。常務取締役で西部営業統括本部長だった私は、その場で対策本部長に任命された。とにかく現地の状況を確かめることが先決だ。ただ鉄道は全線ストップ。道路もあちこちで寸断され、交通規制もあり、車は使えない。

最初の指示は「ミニバイクを手配しろ。中古でもなんでもいい」。当時はまだそれほど普及していなかった携帯電話もできる限り用意させた。近隣の社員たちは自転車を持ち寄る。そして、お客様、社員と家族の安否確認だ。私は情報の混乱を防ぐため、指揮系統を一本化する。

被災地には積水ハウスが施工した住宅が約3万棟あった。建築中の建物も多い。1軒1軒確認することを指示するが、1人で1日に何軒も回れない。「それどころじゃない」との報告も入る。当然のことだ。緊急の人命救助、支援物資の運搬など、より優先すべき事態にも遭遇するのだ。

その対応にも全力を注ぐよう伝えるが、現地は大変だっただろう。自らも被災しながら「こんな非常時に……」と止める家族に後を託し、お客様宅を目指した社員もいた。

お客様相談窓口は、すでに17日、大阪北、神戸支店、阪神営業所に「災害復旧センター」を開設、カスタマーズセンターと連携しながら初動対応に乗り出していた。全国から「積水ハウス会」の方々や関連業者のみなさんが応援に駆けつけてくれ、強い連帯感に胸が熱くなる。

積水ハウスの住宅は2916棟が被害を受けたが、全壊、半壊はなかった。しかし、この大災害で6400人余りの尊い生命が失われた。25万棟近い家屋が全半壊の被害を受けた。住宅メーカーとして、大災害の際に何をすべきなのか。その後、私は自問自答し続けることになる。

被災されたお客様の住宅の補修、修復には責任を持って対応した。対策本部は「阪神大震災復興本部」と名称を変え、仮設住宅の建設など、復旧、復興作業に息の長い取り組みを続けた。私は何度も被災地に足を運んだ。

この大災害の経験から「住まいは家族の命と財産、安全・安心を守るシェルターである」という思いを強くした。「災害時に何をすべきか」を考えるのも大切だが、耐震性の向上など「災害に強い家をつくること」が私たちの使命なのだと心に刻んだ。被害を最小限に食い止めることがいちばんだ。

阪神大震災の経験は、2011年に発生した東日本大震災で活かされる。水、食料の備蓄や部材、機材の緊急配送。人的対応のマニュアル化も拡充していた。

実は95年1月17日の役員会の主要議題は、積水ハウスの木造住宅への本格参入の決議だった。災害に強い木の家をつくるということが、私の新たな仕事に加わった。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(21)住まいの参観日

入居前の家丸ごと展示
お客様の協力を得て拡大

日本全国積水ハウスデー「住まいの参観日」。建築中やお引き渡し間近のお客様の家を多くの方に見ていただく、現在も続いている全国規模のイベントだ。

第1回の開催は1989年。その企画、準備、運営統括は「全国統一イベント委員会」が担当していた。私がその委員長に指名されたのが第4回のことで、続く第5回も委員長を務めた。委員会の組織体制から見直し、一気に規模を拡大させた。

完成品の展示場とは違い、建築途中の様子も含め、商品を丸ごと隅々までご覧いただける。実際の生活感を感じていただくことも可能だ。施工技術、設計対応力をはじめ住まいづくりのあらゆる技術やサービスの質をリアルにアピールできる絶好の機会である。営業の血が騒ぐ。

しかし、展示場開設とは異なり、自分たちの力だけでは完結しない。まず何より、完成前のご自宅をお客様からお借りしなければ始まらない。多彩な商品と数の確保がとりわけ重要になる。お客様の協力が不可欠だ。

私は「われわれの実力、日ごろの取り組み、お客様との信頼関係の真価が問われるイベントなんだ」と社員たちに檄を飛ばした。そして、積水ハウス会をはじめ、多くの関係業者の皆さんにも協力を仰いだ。来場者は着実に増え、第5回には6万組を超えた。当時の年間建築実績は7万~8万戸。6万という数字には大きな意味があった。

こうしたイベントを全国規模で開催する積水ハウスの企業力と商品力の両方への信頼感が高まり、多くの新規契約に結び付いた。さらに、イベント開催を通じて、社員と協力工事店、関係業者の連帯が強化された。技術力やさまざまなノウハウの全国的な共有化に役立ったのも大きかった。参加していたスタッフの数は1万人を超えていた。

積水ハウスの企業スケールを全国津々浦々に示す大型イベント。企画、準備には膨大な時間と手間がかかる。その基礎を築くことができた。基本となる仕組みを構築し、それを軌道に乗せれば、後は時代のニーズに合わせて新しい企画を盛り込むなど、より魅力的に進化させていけばいい。その後の継続開催によって、積水ハウス飛躍の原動力のひとつになったことは間違いない。

私はこうした歴史の流れをつくり、それを次の世代、部下たちに引き継いでいくことが、上に立つ者の大切な仕事、使命だと考えてきた。住宅営業のスタートはカタログも見込客リストもない時代。単独の展示場、総合展示場開設から全国規模の「住まいの参観日」開催へ。私自身の営業活動の歩みとも重なる。

一連の取り組みは、現在、全国6カ所の工場敷地内にある「住まいの夢工場」に発展することにもなる。先進技術の紹介も含め、住まいづくりの不安や疑問におこたえしている施設だ。お客様に好評なのはもちろん、その運営を工場で働く社員が兼務して担当しているのも特筆すべきことだと考えている。

社員が担当の垣根を越えてお客様と接する。お客様にとっては営業も、技術も、製造もない。積水ハウス会も含めて、今、オール積水ハウスといえる体制が整っている。そこからまた、新たな歴史が生まれると期待している。

(積水ハウス会長兼CEO)

和田勇(20)取締役に就任

統括地域、西日本全てに
自ら成長し、組織を活性化

「中部第一営業部長を命ず」。その辞令を受け取ったのは1987年4月だった。28歳で営業所長になり、中部営業部次長を経て、私は46歳になるところだった。

勤務地は引き続き名古屋だ。当時、積水ハウスの営業担当社員は初任地から異動することは少なかった。住宅営業は地域密着が大原則という考えだ。確かに私の半生を振り返ると、名古屋で築いた人間関係、ネットワークが大きな財産になっている。担当は愛知、岐阜、三重の3県になった。翌年には中部第二営業部長を兼務することになり、静岡、長野、新潟が加わる。

責任が重くなり、部下も増える。しかし、私には所長時代からいつも変わらない思いがあった。「部下は上司を替えられない。上司は部下を替えられる」ということだ。任期が長くなると、部下にとっては、上司の存在が鬱陶しくなることもあるだろう。組織内の空気が停滞すれば、力も低下する。常に風通しのよい組織づくりを考え、自らが絶えず成長、変化することを心がけていた。

90年に取締役に就任。中部、関西エリアを担当する西部営業統括本部長を経て、常務取締役として95年には西日本営業統括本部長に就く。中国、四国、九州まで、中部以西の西日本全域の営業を統括する立場になったわけだ。

初任地からの異動が少ないせいもあり、地域が変わると、まるで別会社のような雰囲気があった。異文化といってもいい。ひ弱に感じる組織もあった。地方には野武士のような社員もいる。私は共通の目標、営業方針を徹底して刷り込み、地域やエリアを超えた社員の人間関係の構築にも心を砕いた。

協力工事店の組織、積水ハウス会にも同じようなことがいえた。歴史や風土が違えば、人間の気質にも違いがある。ただ、それを単純に均一化してしまうのでは、個性を失うことにもなる。

それぞれのいいところを活かしてもらいながら、全国共通のマインドを醸成していった。こうした取り組みのお手本は田鍋さんだ。私も工事店の方々、一人ひとりと目線を合わせ、人間的つながりをつくり、団結力を強めた。

93年11月には、会社設立以来の累計建築戸数が100万戸を超えていた。企業としての社会的責任は、ますます重くなる。私は社内の体制を整備するとともに、外に向かっても積極的に行動した。

例えば、マスコミとの関係づくり。これは下心のあるマスコミ対策などではない。積水ハウスという会社をきちんと評価してもらい、業界全体の社会的地位を高めたいという思いもあった。

不思議なご縁もある。名古屋時代から親しくさせていただいていた日本経済新聞の菅谷定彦さん、朝日新聞の広瀬道貞さん。お互い名古屋の代表から大阪代表へ。後に私は社長になり、おふたりとも系列のテレビのキー局の社長に就任された。公私にわたるさまざまな出会いから得るものは大きかった。

最前線の営業の指揮官として当然、本業も怠ることなく、お客様本位の事業展開を積極的に推進した。89年には「人間愛」を根本哲学に、新たな企業理念も制定されていた。シンボルマークも新しくなった。私自身も新たな成長を心に誓う日々が続く。

(積水ハウス会長兼CEO)