利根川進(14)バーゼルへ

先生の大局観信じ決心
免疫学で未解決の問題知る

ダルベッコ先生からもらった手紙を引き出しにしまったままにしていたので、移籍先探しは全く進展していません。事情を説明して、「免疫学に進むつもりはない」と先生に伝えると、先生は「そうか、残念だな。免疫学は面白くなると思うがな」とだけ言われました。

いつもはあれこれ細かい指示を出さない先生ですので、これほどこだわるのは本当にめずらしいことです。先生の大局観を尊敬していたので、気持ちは徐々に揺らいできました。最後は一種のギャンブルと割り切って、スイスのバーゼルに行こうと決心しました。

1971年1月、7年余りを過ごしたカリフォルニア州ラホヤの地を離れ、バーゼルに向かいました。この時も悲愴感や不安感は全くなく、新天地を楽しむ気持ちの方が強かったと覚えています。心の隅には「2年ぐらいやって、また米国に戻ってこよう」という思いが残っていました。実は63年に渡米して以来、一度も日本に帰ったことはなく、久しぶりに実家に立ち寄りましたが、日本の発展は目をみはるものがありました。

今から振り返ってみると、思い切った決断を下したものだと思います。しかしこれが結局、ノーベル賞につながる第一歩となり、私の研究者人生の中で最もドラマチックな転機だったと言えます。

バーゼル免疫学研究所は、スイスの製薬会社大手、ホフマン・ラ・ロシュが作った基礎研究所です。今はもう無くなりました。当時は職員が全体で150人ほどで、このうち約50人が博士号を持つ研究者という、こぢんまりとした規模でした。研究所長のヤーネ博士は、全ての研究者を年齢などに関係なく「メンバー」という独立した身分にして、平等で自由に研究できる、面白い運営方法を導入していました。

私は2年間の契約で、米国でやり残したがんウイルスを使った遺伝子発現の実験を再開しました。免疫とは関係ありません。しかし1年ぐらい研究を続けていると、その考えが少しずつ変わってきました。「周りには優れた免疫研究者がいる。この分野にどういう問題があるのか勉強してみよう」と。

せっかく免疫を専門にする研究所に来たのだから、研究者の発表を聞いたり論文を読んだりして、自分なりにできるテーマはないだろうかと調べ始めました。

幸いにも、チャールズ・スタインバーグという仲の良い友達ができました。カリフォルニア工科大のマックス・デルブルック(物理学者にして、サルバドール・ルリアと共に分子生物学の創始者。69年ノーベル生理学医学賞)のもとで遺伝学を学んだ彼は、数学もできてコンピューターに明るく、ずばぬけて頭がよかったのです。ヤーネ所長がカリフォルニア工科大で訪問研究員をしていた折に知り合い、「参謀役として来てほしい」と、バーゼル研究所に引き抜いたそうです。

設立されたばかりの研究所にはまだ食堂がなく、近くの墓地に併設されていたカフェに、チャールズとよく一緒に行きました。彼は免疫が専門ではありませんでしたが、この分野の課題や問題点をよく知っていました。話をしているうちに、免疫学分野には「抗体の多様性」という未解決の問題があることを知ったのです。

(分子生物学者)

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