利根川進(10)ボナー教授の死

研究への情熱教訓に
実験繰り返し博士号取得

やっと大学院での指導教授が見つかったものの、林多紀先生も、私が実験に使いたかったラムダファージは、扱ったことがありません。そこで文献を調べて、第一人者であるカリフォルニア工科大学(カルテク)のジーン・ワイグル教授を見つけました。「実はこれこれこういう実験をやりたいので、ラムダファージを分けて欲しい」と手紙を出すと、手描きイラスト入りの詳細な解説とともに試料が届きました。若い日本人留学生に対しても丁寧に応対してくれる寛大さに、「米国の研究者はすばらしい」と感激したものです。

大学院で分子生物学の実験を繰り返し、様々なノウハウを身に付けました。この時の経験は、後にスイスのバーゼル免疫学研究所に移籍して、ゼロから研究を始める際に、大いに役立った。

1966年に最初の論文を発表しました。また、米東海岸にある分子生物学の拠点であるコールド・スプリング・ハーバー研究所で毎年開かれている「ファージ・ミーティング」にも参加。マサチューセッツ工科大学やハーバード大学など錚々たる大学の学生も来ており、みんな気の利いたイラストを作ったりして、水準の高い成果を発表します。「研究の競争は厳しそうだなあ」という印象を抱きましたが、著名な研究者たちと直接顔を合わせる機会を得られて、ますます意欲もわいてきました。

この間、治療を続けていたボナー教授は、結局64年に48歳の若さで亡くなりました。先生と重なった期間はわずか9カ月でしたが、彼の未来志向に満ちた研究への情熱は、とても貴重な教訓となりました。

2010年11月にカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の開校50周年を祝う式典があり、晩餐(ばんさん)会でのキーノート・スピーカーとして招かれ、ボナー教授との思い出を話しました。

ボナー教授は、58年にノーベル生理学医学賞を受賞したジョージ・ビードル、エドワード・テータム両博士の薫陶を受け、一個の遺伝子が一個のたんぱく質を作るという仮説を唱えていました。その後私が免疫の抗体多様性の謎を解いた研究で、例外的に、抗体の可変領域と不変領域は、遺伝子を親から受け継いだ時には二つは分かれていて、「二遺伝子、一たんぱく」であることを証明しましたが、「一遺伝子、一たんぱく」の仮説は、一般的には正しい原則です。ビードルとテータムは、この発見でノーベル賞を受賞しましたが、ボナー教授はチームの若いメンバーということで受賞から外されたのは、とても残念なことでした。

68年に博士号を取得し、次は博士研究員(ポストドクター)としてよその研究室に修行に出るのが普通です。ラホヤが気に入っていましたし、隣には医学生物学分野で有名なソーク研究所があります。この研究所は、ポリオワクチンを開発して多くの子供の命を救った、ジョナス・ソーク医師のところに集まった多額の寄付金を基に設立。建物は世界的な建築家ルイス・カーンのデザインで、夕日が沈む太平洋に向けて広がる大理石のコートヤードを中心にコの字形に研究室が配置された、すばらしい芸術作品です。そこでひときわ活発に研究していたのがレナート・ダルベッコ博士でした。

(分子生物学者)

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