利根川進(3)日比谷高

兄と上京受験校に入学
地方のトップ、「中の上」に転落

小学校と中学校の頃は、引っ越しが相次ぎました。父が工場長になり、小学校1年生から中学校1年生までは富山県大沢野町(現在は富山市)に、中学2年生までは愛媛県三瓶町(同県西予市)に移り住みました。

紡績会社は、水が豊富で安く労働者を雇える地方に紡績工場を作ったので、結果として広大な自然環境の中で、魚釣りや草野球、栗拾いなどをしてのびのびと遊ぶことができ、自己形成にはとてもよかったのではないかと感じています。

この間、ガリ勉ではありませんでしたが、いつも優等生だったそうです。両親とも教育熱心で、母は特に「字をきれいに書きなさい」と言い、大沢野町の家では、書道の先生を呼んで兄の孝や妹の美都子とともに兄弟3人で習字をしていたことを覚えています。

3人とも富山県の大会に作品を出して何らかの賞をもらい、全国大会で文部大臣賞を受賞したりしました。県の弁論大会に小学校代表として参加して入賞した思い出もあります。

両親から「勉強しなさい」と言われたことはありませんが、母がよく言っていたのは「もっと早く宿題を始めれば、もっと早く寝られるのにねぇ」ということでした。とにかく学校から帰ると、まず遊んでしまうので、宿題が後回しになってしまう。でも宿題をやらずに学校に行くということはなかったと思います。それで、夜遅くなってしまうのです。

中学2年も終わりに近づいた頃、三瓶町から東京に引っ越すことになりました。今度は家族一緒ではなく、兄と私の2人だけでした。その後の教育と進学について心配した母が、東京に住んでいる叔父らに相談して決めたのです。大田区雪谷町に住む叔父の家に下宿し、雪谷中学校に通うことになりました。兄と一緒だったのは最初の1年だけで、あとは1人で目黒区西小山に住む伯母の家にお世話になりました。

1955年、運良く都立日比谷高校に入学しました。同じ雪谷中学からは3人受験して、3人とも合格しました。その頃、日比谷高校はいわゆる受験校で、都内の秀才がたくさん集まっていました。それで最初の学期末にもらった成績表をみて、実はちょっと驚いたんですね。5段階評価で3や4がいくつかあり、「これは何かの間違いではないか」と。

それまで成績はいつもトップでしたから信じられなかった。しかし、次の学期でも似たような成績をもらってはじめて「自分より勉強ができる奴がいるんだ」と気づいたわけです。高校時代を通じて成績は、だいたい半分から上、良くても上から3分の1くらいだったのではないかと思います。

担任は、古文を教えていた次田香澄先生でした。クラス替えの時、校庭に先生たちが立ち、その前に生徒が自主的に並んで担任を選んでいました。次田先生は、細身で穏やかで優しく、多くの生徒に慕われていたので、いつも長い列ができていました。

高校の授業は、旧制一中のしきたりを継いで、主要な科目は100分授業で、先生と生徒が質疑をやり取りする方式をとっていました。文系、理系によるクラス分けなどない時代で、かえって様々な分野の知識に触れることができたと思います。

(分子生物学者)

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