利根川進(2)親族

父も両祖父も理科系
父方は電子通信技術の権威

1939(昭和14)年9月5日、父・勉と母・美世子の次男として名古屋市で生まれました。兄弟は兄の孝と妹の美都子、弟の和彦の4人です。

勉は、京都大学で機械工学を学んだエンジニアで、当時、天満織物(現在のシキボウ)に勤めていました。大阪市近郊で暮らしていたのですが、母親が実家のある名古屋に里帰りして私を産みました。数カ月して母と一緒に大阪に戻ったようです。

私がノーベル賞を受賞した後のことです。名古屋のテレビ局が、私の生い立ちを振り返る番組を企画し、撮影クルーと一緒に生家のある白壁町界隈を巡りました。名古屋城に近い武家屋敷の町並みが残る一角で、大きな家がいくつも建っていました。

利根川家はもともと備後国(現在の広島県辺り)福山藩の家臣でした。曽祖父の浩(こう)は、上京して東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業し、中学校教師として国内の各地に赴任しました。最後は旧制第5高等学校(熊本大学の前身)の教官を務めました。

浩には跡取りの男児が無く、同じ福山藩の家臣だった岡本家から養子を迎えました。その守三郎が私の実祖父に当たります。守三郎は東京大学で電気工学を学び、通信技師として逓信省(現在の総務省)に奉職しました。米英に留学し、後に東大、東工大で教壇にも立っています。この分野ではよく知られた人物だったようです。

イカの神経を使って情報伝達の仕組みを研究していた故松本元氏が教えてくれたのですが、守三郎は電子技術総合研究所(現在の産業技術総合研究所)の2代目所長を務めました。また現在、約3万5000人の会員を擁する電子情報通信学会の初代会長も歴任しました。

小さい頃、麻疹と百日咳を同時に患った私たち兄弟3人は母に連れられて、守三郎が別荘にしていた鎌倉の家で1年近く養生しました。守三郎は4男3女を育て、夏の間、この家には一族のいとこたち20人くらいが集まってにぎやかでした。祖父の家は洋風で、ベッドに羽根布団と椅子、朝食はトーストと卵といった様式だったそうです。

守三郎の妻、私の祖母になる春は、鹿児島県出身の上野景範とイクの次女で、大変器用な人だったそうです。上野景範は外務省に勤め、公使として英米やオーストリアなどに渡りました。進取の気性に富んだ人物で、英学を学ぶために上海に密航もし、後に森有礼や伊藤博文らと仕事をしたそうです。油絵が趣味だったと伝わっています。

母方の祖父、益子愛太郎も東大の機械工学の卒業で、東洋紡績(現在の東洋紡)の重役をしていました。ハイカラな人物で、自分で絵筆を取り、写真、謡などを趣味にしていました。大変な凝り性で、何かに興味を持つと、とことん追求する性格だったそうです。彼の撮った写真は何点か、東京都写真美術館に所蔵されていると聞いています。母も私も美しい物に惹かれる性向があるのは、この祖父の影響かもしれません。

6歳の時に終戦を迎えました。その頃は大阪府豊中市の曽根というところに住んでいました。戦時中に米軍の空襲をあまり受けていなかったと思いますが、よく警報が鳴って防空壕に入った記憶はあります。一度遠くに米軍の飛行機が墜落したこともありました。

(分子生物学者)

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