利根川進(30)日本の生きる道

教育と研究に投資を
若者、面白い仕事に打ち込め

ずっとサイエンスをやってきてよかったのは、いい成果をあげれば客観的な評価を受けて自らの進む道を決められることでした。

人文科学や社会科学の分野だと評価はやや曖昧で揺らぎます。場合によっては、研究以外の要素が評価に関係してくることもあるでしょう。そんな人生は考えられません。やりたいことを見つけてそれに賭ける点で、サイエンスはやりがいがあったと思います。

私は、基本的に楽観的な人間がサイエンスに向いていると思います。困難にぶつかっても簡単にめいらない、あきらめない人です。私自身、いやなことがあっても一晩眠れば立ち直れます。

それとプライオリティー(優先順位)がしっかりしていること。最も重要なことを常に優先し、それ以外はどうでもいいと思えることが必要です。実験がうまく行かない時、このまま続けるのか、それともやめるのか。プライオリティーをしっかりさせて集中する能力はとても大切だと思います。

また、テイストがよいことも大事です。あまたあるアイデアの中から、どの実験を選ぶのか、どの師を選ぶのかもテイストです。

日本は天然資源の限られた国です。世界の中でしっかりと認められて豊かな社会を維持していくには、人という資源を生かすしかないでしょう。そのためには教育と研究への投資が欠かせません。

21世紀はアジアの時代だといわれます。人口が多く経済発展の著しいこの地域では今、選ばれたリーダーたちが長期のビジョンを持って教育と科学技術に重点的に投資しています。マサチューセッツ工科大学(MIT)にも数多くのアジアの若者たちが留学し、極めて熱心に学び研究しています。ただ日本からの留学生が激減しているのが心配です。

日本の大学の入試制度は依然として画一的なままです。MITの場合、SATと呼ばれる進学適性試験や高校での成績も考慮しますが、なによりいくつかの小論文と個人面接を重視しています。面接官はMITを卒業して各界で活躍している人たちに依頼します。入学後、本当にMITに必要な学生だったかどうかを大学側が検証して、よい学生を選べなかった面接官は次回から交代させられます。

このようなやり方では「入試が主観的になってしまうのではないか」と日本の人たちに聞かれることがあります。そもそもMITの大学としての特徴を維持するために、むしろ主観的な視点を大事にしているそうです。なるべくエネルギーがあって独創的な人材を採りたい。そのためには、試験の点数が少し多いか少ないかは重要ではない、という考え方です。

研究のような創造的な仕事をする場合、試験で高得点を取れる秀才が適しているとは限りません。独創的であろうとすれば、かえってマイナス要因かもしれません。ある仮説を立てた時にどれくらい難しいかを予想できてしまい、高い目標に挑戦する強い意欲を持てなくなるからです。

若い人たちには、自分が夢中になるような面白い仕事、素晴らしい課題を見つけて打ち込んで欲しいと思います。

(分子生物学者)

利根川進(29)私の家族

2男1女に恵まれる
才気輝く次男の死に悲嘆

家族について少し紹介しましょう。

妻の真由美とは1985年に結婚しました。彼女は当時NHKで教育番組や特集などを担当するディレクターでした。「21世紀は警告する」という特集番組を作るために、私にインタビューを申し込んできて知り合いました。

私たち夫婦は長男の秀(ひで)、長女の英(はな)そして次男の知(さと)の2男1女に恵まれました。3人ともボストンで生まれ育ったアメリカ人です。子育てに関しては、色々な機会をできるだけ与えるようにしようと心がけました。3人ともとても心優しい人間に育ったと思います。

秀は、マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業して日本のIT関係の企業に就職し、東京で1年足らず働いた後、その会社が買収したサンフランシスコにあるアメリカの会社で働いています。英は、ニューヨークの伝統あるスキドモア大学を卒業した後、日本政府が行っているJET(英語が母国語の若い大学卒業生を日本に招いて中学・高校で英会話の授業を補佐する)プログラムで、埼玉県の高校で1年働いた後、この秋からパートタイムでマスコミの仕事をしています。

知は、ずば抜けて才能に恵まれた、ミステリアスなところのある子供でした。何をやっても見事にすんなり、すばらしくよくできてしまう。物理、数学、歴史をはじめとする学業一切はもちろん、チェロとピアノを演奏しましたが、ピアノのコンペティションで勝ってカーネギーホールで演奏するほど、音楽の才能にも恵まれていました。

いつ見てもクールで余裕がある。これほどすごい才能を持った子供は将来どうなるのだろうと、本当に楽しみにしていました。知は小さい頃からサイエンティストになると決めていて、3人の子供の中で唯一、私の知っている世界を目指していました。

夏休みにMITの生物物理研究室で働いてみたいというので、彼が教授との面接に行ったのです。後で何を質問されたのか尋ねてみると「何を目的にこの研究室で働きたいのかと聞かれた」と。それに対して「エデュケーション、インスピレーション&ファン」と答えたというのです。まったく17歳とは思えないような答です。もちろん研究室に受け入れてもらい、かなり真剣に研究したようで、後に「セル」という有名な科学誌の論文に共著者として名前が載ることになっているそうです。「一高校生がここまでできるとは信じ難い」と教授から言われました。

科学を志していた知は、残念ながらMIT一年生の時、誰にも何も告げずに、18歳で夭逝してしまいました。親にとって、これ以上の残酷はありません。私も残りの人生それほど長くはありませんが、最後まで、十字架を背負って生きて行かなくてはなりません。実は、私は余りにも次から次へと幸運に恵まれてきましたので、以前から時々「大丈夫かな」という気がしていました。私は宗教を持たない人間ですが、やはり天は禍福を調整したのではないかと。もしそうなら、ノーベル賞その他の幸運はいらないから、知を返してほしいと心から思います。

深い悲しみにくれる日々ですが、本当に短い間ではありましたが、あれほど魅力的な若者と過ごせたことを、感謝しなくてはならないのかと思うこともあります。

(分子生物学者)

利根川進(28)脳細胞を操作

記憶の曖昧さを証明
マウスの脳に「間違い」作成

カナダの脳神経外科医、ワイルダー・ペンフィールド博士は1900年代前半、てんかん患者の手術前に、脳のどこに支障があるのかを調べるために、脳に小さな電極を刺して調査しました。その際、海馬を刺激すると、「誰かが自分に話しかけている」とか「私の犬がとなりの猫を追いかけている」といったような記憶を呼び起こすことを偶然見つけました。これは、何らかの形でこのタイプの記憶が海馬かその近くに保存されていることを示唆しています。一体どのようにして記憶は保存されているのでしょうか。

マサチューセッツ工科大学(MIT)の私のグループでは、記憶と脳神経回路との関係を探る研究で新しい展開がありました。「オプトジェネティクス」という、2005年に発表された画期的な新しい技術を利用しています。新しい学習をした時に活性化する海馬の中の脳神経細胞群を見つけだし、ブルーの光照射でその細胞だけが働きだすような遺伝子組み換えマウスを12年に開発しました。

これによって、特定の保存された記憶を、随時、意図的に取り出すことができることを証明し、12年の「ネイチャー」誌に発表しました。特定の記憶がどこにしまわれているのか、そしてその記憶がしまわれた細胞を刺激することで、果たしてその特定記憶を呼び出すことができるのか、という大きな謎に答を出したのです。

さらに、このマウスの脳に「間違いの記憶」を作ることに成功し、13年の「サイエンス」誌に発表。記憶というものが、時にはいかに不確実で頼りにならないものであるかを脳内機構にまで掘り下げて証明したことになります。この論文は専門の脳科学者のみでなく、世界中のメディアで取り上げられました。

過去に起こったできごとを思い出すとき、私たちの脳は、断片的な記憶を集めて再構成するわけですが、その際、一部を変化させてしまうことが往々にしてあり、間違いの記憶が重大な影響を及ぼすこともあります。例えば米国では、目撃者または被害者の証言を重要な証拠として長期投獄された250人のうち、約75%はその後導入されたDNA鑑定によって無実であることが判明しました。

間違った記憶は、本人にとっては正しい記憶として残っているのですから、必ずしもウソの証言をしているわけではない点がかえって問題です。例えば、強く記憶に残っているようなできごとを思い出しながら、何か別のことをしていると、その両者が記憶の中で結びついてしまうことが時には起こるのです。

間違いの記憶は自然な状態では動物には起こらず、人間に特有なようにみえます。何か進化上のメリットがあるのか、ということですが、私はむしろこれは副産物ではないかと考えています。人間にはすばらしい想像力と創造力が備わっています。そのおかげで、科学・芸術・音楽などを通して、文明・文化を築いてきました。

人間の脳細胞は、その時その時の外界からの刺激と直接かかわりなく、ため込んだ過去のできごとの記憶をもとに常に活発な活動をしています。そのため、過去のできごとと関係のない現在のできごとが結びついてしまって、新しい経験が創造されてしまうことがあるのではないかと考えています。

(分子生物学者)

利根川進(27)日本の大学

ピラミッド型が問題
雑務も多く予算も硬直的

日本では大学の序列がピラミッド型に決まっている点が問題です。しかもいわゆる「上位」にいると思い込んでいる大学ほど、優秀な学生を他の大学に出したり外の優秀な学生を採用したりする意欲が低くなっています。

米国の大学はピラミッド型ではなく台形のような構造です。トップの10校くらいは特徴に違いがあっても研究水準に差はなく、教授から学生まで研究者は非常に流動的です。日本ではいわゆる上位の大学から外れると、本人も周囲も何か都落ちするような思いにとらわれるようですが、米国ではそういう雰囲気が軽いようです。

例えばマサチューセッツ工科大学(MIT)でテニュア(終身雇用資格)を得られず別の大学に移籍しても、それはMITの評価がおかしいのだと周囲は支援するし、本人も奮起して大きな発見につながることが往々にしてあります。単なる「名前」や「見かけ」にふりまわされず、「実質」ないし「実力」を尊ぶ米国の文化が、科学研究の成功に大きく貢献していると思います。

研究所の中身が一流である時、その研究所は「イッツ・オン・ザ・マップ」(地図に載っている)と表現します。理化学研究所が1997年に新設した脳科学総合研究センター(BSI)は、世界の研究者たちがその存在を認める、日本を代表する脳科学の拠点だと思います。まさに世界的に「オン・ザ・マップ」です。

私は2009年4月、BSIの3代目センター長に就任しました。現在もMITの第一線で活発に研究を続けており、結果として日米を行き来する生活を送ることになりました。BSIでは5人の優秀な副センター長に支えてもらっています。

新しい研究所でも10年、20年たつと初期のエキサイティングな状況が徐々に薄れてしまいます。これからの脳科学研究を展望してBSIの研究水準を一段と高めていくことが使命だと感じています。

そのために一番重要なのはやはり研究者です。多層的になっている階層をやめてフラットな組織にし、30代の若い研究者も研究チームを主宰できるようにしました。若い人がある程度の割合を占めていないと研究所に活気は出ませんし、その若い研究者も、数年後の厳正な成果レビューをもとに、一部入れ替われるような仕組みになっていないといけません。

脳科学は黎明期にありますから、様々な分野でエキサイティングな研究が行われていますが、個人的には、神経回路の機能を、分子生物学や遺伝子工学の技術だけでなく、電気生理学や行動学、最先端の光学顕微鏡の技術などを組み合わせて調べる「ニューラル・サーキット・ジェネティクス」が、特に学際的で斬新な分野であると思っています。これをテーマにして、理研とMITの共同研究も行っています。

それにしても日本の組織の事務手続きの煩雑さや硬直的な予算制度には驚きました。例えば、学会出張する際には事前に許可を得て、わずかでも変更があれば書類を書き直して再度申請し直さなければなりません。学会出張中に別の大学の科学者にセミナーに来ないかと誘われても、断らざるを得ないこともあります。単に後で精算すれば済むことなのに。

(分子生物学者)

利根川進(26)日本での活動

大学院大学設立に協力
学部なくし学際的な環境に

ハワード・ヒューズ医学研究所のインベスティゲーターのような雇用形態は日本にはない制度でしょう。マサチューセッツ工科大学(MIT)は私が獲得した研究助成金から、オーバーヘッドと呼ばれる経費を差し引き、それを大学の運営費に充てます。米国立衛生研究所(NIH)など政府からの研究資金と、大規模な民間財団の資金を組み合わせて研究を推進する、米国らしい方法といえるでしょう。

研究所長という管理職は、MITに来てから初めて務めたわけです。結構大変でしたが、研究所全体の将来のビジョンを描いて、ゼロからスタートし、研究所を建てて、有能な人材を育てていくというのは、なかなかエキサイティングでした。

2012年に開学した沖縄科学技術大学院大学の設立には最初から関わりました。科学技術振興に熱心な尾身幸次・元衆院議員から運営委員に加わってほしいと要請があったのです。学際的で国際色豊かな、従来の日本にはない大学をつくろうというのが尾身さんのビジョンでした。

同大学を設立するために、政府はまず「沖縄科学技術研究基盤整備機構」という独立行政法人をつくり、この機構の理事長にシドニー・ブレナー博士(02年ノーベル生理学医学賞受賞)を迎えました。

私は同機構に設けられた運営委員会の一員となり、トーステン・ヴィーゼル・ロックフェラー大学名誉学長(1981年ノーベル賞)と有馬朗人・元東京大学長の共同議長のもと、新大学のあり方を議論し08年に骨格を固めました。11年に学校法人の設立が正式に認可され、機構は役割を果たして解散。大学は12年秋に初めての学生を迎え入れ、本格的に開学しました。

この大学は、意思決定機関として設置された理事会と、理事会で選んだ学長が協力して運営します。私はその理事会メンバーでもあります。初代学長に、著名な物理学者、ジョナサン・ドーファン・スタンフォード大学教授を起用しました。

研究の対象は神経科学や環境・生態学、数学・計算科学など5つの分野です。教授と准教授が研究ユニットを組織し、学部・学科を設けない非常にフラットで学際的な研究環境となっています。現在44の研究ユニットがあり、研究者数は約350人。このうち外国人170人ほどが世界約30カ国から来ていると聞いています。日本の大学としては画期的な運営状況といえるでしょう。

多くの日本の大学は、世界中の研究者をひきつける魅力を十分に備えているとはいい難く、学部・学科の細分化した組織の枠に縛られた研究も目立ち、学際的な研究が少ない。こうした問題を、既存の大学を改革して解消していくのは並大抵のことではありません。新しい大学はそれを打破する絶好のチャンスです。その挑戦を応援したいと思っていますが、最近は、MITでの研究や理化学研究所の所長職が忙しく、十分な時間を割くことができません。

米国の大学は、研究には世界で最も環境が整備されているといえます。ライフサイエンス分野で世界を見回してみると、米国の大学が質量ともに圧倒的に優れています。英国やドイツ、スイス、北欧諸国の大学の水準も高い。日本の大学からも世界で評価される研究はもちろん出ていますが、人口に比べて数が少ない。

(分子生物学者)

利根川進(25)「脳の10年」始まる

記憶研究所初代所長に
米篤志家から多額の寄付

米国議会が1990年に「脳の10年」を決議し、全米の大学で脳研究を推進する機運が高まりました。

マサチューセッツ工科大学(MIT)でも、脳を研究する学科をより充実させようという声が強くなっていました。そして94年、寄付金を基に「学習・記憶研究センター」が創設され、私にセンター長をやってくれないかという問い合わせがありました。

それまではがん研究所に所属していましたが、テーマが免疫から脳に移り、関係が薄くなっていました。この機会に、ふさわしい場に移る方がよいと判断し、センター長を引き受けることに。

国を挙げて脳科学研究を推進する米国の動向は、日本にも影響を及ぼしました。理化学研究所の「国際フロンティア研究システム」で脳研究を率いていた伊藤正男システム長(当時)は、政府に積極的な支援を働き掛けておられました。伊藤先生は小脳の学習と記憶の仕組みを研究された、世界的に著名な研究者です。98年からは、10年間に及ぶMITと理研の研究連携も始まりました。

ほぼ時期を同じくして、ピカワ夫妻というニューヨークの篤志家がMITの「学習・記憶研究センター」に多額の寄付を申し出て、MITの基金と合わせて、新研究所建設の計画が決まりました。

2004年に世界的建築家、チャールズ・コリアのデザインによる立派な研究所が新設され、従来4つあったチームを13にまで増やしました。この研究所は、「ピカワ学習と記憶研究所」と改名して、アメリカやヨーロッパでできた一連の記憶研究所のモデルになっています。

分子生物学を中心に、電子工学や認知科学など様々な分野から30歳代の若い研究者を、それぞれ独立した研究チームのヘッドとして集め、優れた論文を次々と発表してきました。ニューロサイエンス(神経科学)の分野で、MITはそれまで米国の大学の中で上位にランキングされていませんでしたが、今では常に上位3番以内に入っています。

88年、まだ免疫の研究をしていた頃から、私は「ハワード・ヒューズ医学研究所」のインベスティゲーター(研究室のヘッド)でした。

この研究所は、宇宙航空事業で巨額の財をなしたハワード・ヒューズ氏の資産を運用する財団によって、53年に設立されました。医学と生物学の分野で研究と教育を支援する非営利組織です。数年前に自前の研究所も作りましたが、その数倍の規模で、アメリカ中の一流大学で教授ないし助教授となっている人の中から、特に優れた研究成果を挙げている研究者を厳選して、それぞれの大学における教授職を維持したまま、兼任の形で潤沢な研究費を提供するという、いわばエリート研究者支援システムです。

今はインベスティゲーターは、大学などから推薦された研究者を審査して採用するかどうかを決めていますが、私の頃は、財団の方から直接指名がありました。任期は5年間で、めざましい業績が出ていれば繰り返し延長されます。インベスティゲーターは現在330人ほどいて、このうち私を含め17人がノーベル賞受賞者です。今年受賞したばかりのトーマス・ズートホーフ博士やランディ・シェクマン博士もその一人です。

(分子生物学者)

利根川進(24)テーマ選び

「学習と記憶」解明に的
遺伝子組み換えマウス活用

私もクリック博士と同じように一元論の考えで、脳機能の解明ひいては「人間とは何か」の解明を目指して研究を開始しました。

しかし、何をどのようにやるのか具体的な案はまだありませんでした。単に研究するだけでは面白くない。世界に貢献できるような結果を出さなければ意味はありません。新たな道を切り開くような研究をしたい。そのための研究戦略を立てる必要がありました。

分子生物学の手法を使えば、実験動物には本来備わっていない遺伝子を組み込んだり、特定の遺伝子を抑制したりすることができます。免疫の研究でそういうマウスをたくさん作り利用してきました。

1980年代になると、発生や分化、がんの研究で、遺伝子を組み換えたマウスの利用が活発になってきましたが、脳の分野でそのような試みはまだありませんでした。

91年にポストドクターとして、アルシノ・シルバ君が私の研究室に入ってきて、心の現象を研究したいと言う。遺伝子組み換えマウスを使った実験が可能で、その結果が人間にも適用できるテーマとは何か。彼とじっくり議論し、「学習と記憶」の仕組みにテーマを絞り込みました。

記憶には種類があります。「昨夜何を食べたか」とか「去年の夏休みはどこで何をしたか」といった経験した出来事の記憶、つまり「エピソード記憶」と、テニスの練習を積んで上手になるような「技能的な記憶」です。このうち「エピソード記憶」には、脳の中の「海馬」と呼ばれる場所が重要な役割を果たしています。

「エピソード記憶」に関与している海馬に、ある酵素の働きを抑える薬を投与すると、海馬の記憶が邪魔されることが分かっていました。ただ、その薬が他の場所に作用して、結果として記憶を邪魔している可能性も否定できません。明確に証明されていない状況でした。私たちは、その酵素を作る特定遺伝子のみを働かなくしたノックアウト・マウスを作り、うまく記憶ができなくなることを証明しました。

92年に科学誌「サイエンス」に2本の論文を発表し、脳研究に遺伝子組み換えマウスを活用する先駆けとなりました。

問題もまだ残っていました。特定酵素と海馬での記憶の関係をはっきりさせるためには、その酵素が、海馬の中でのみ働かないようにしなければならない。その頃は、マウスの脳全体でその酵素をブロックするようにしかできていませんでした。

しかしこの問題も、新たに加わった若い研究者たちが実験を積み重ね、特定の遺伝子のみを、特定の期間だけノックアウトできるような、遺伝子組み換えマウスを作り出せるようになりました。

アルシノ・シルバ君はその後、コールド・スプリング・ハーバー研究所を経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授に転じ、脳科学研究を継続しています。

ところで、2004年5月に突然レッドソックスからフェンウェイパークでの始球式への招待がありました。学生相手に少し練習をして、当日始球式に臨みましたが、投球はワンバウンドでした。何しろスプリッターを投げたので。この年、レッドソックスは86年ぶりに優勝しました。

(分子生物学者)

利根川進(23)授賞式の10日間

王室のもてなし夢心地
会見で脳研究への転換表明

スウェーデンでのノーベル賞授賞式は、アルフレッド・ノーベルの命日に当たる12月10日に開かれます。その1週間ほど前からストックホルムに滞在します。

ボストンを出発するスカンジナビア航空には、同じ年のノーベル文学賞を受賞し、当時ボストンに住んでいたヨシフ・ブロツキー氏と、マサチューセッツ工科大学(MIT)教授で経済学賞を受賞したロバート・ソロー氏も同乗していました。機内で「3人のノーベル賞受賞者が搭乗しています」とアナウンスされると、一斉に拍手が起きました。

現地に着くと、タラップを下りたところにリムジンが待機していて、この瞬間から「王室のおもてなし」の始まりです。海外勤務経験のあるスウェーデン外務省の若く有能な男性外交官が、私と妻のアタッシェ(付添人)としてスウェーデン滞在中の約10日間、ずっと付きっきりで面倒をみてくれました。

滞在中、カロリンスカ研究所で受賞講演を行い、晩餐会では短いスピーチをしました。毎日のようにパーティーや夕食会、インタビューが続きました。研究者は普段、贅沢な生活をしていませんから、ノーベル・ウイークは確かに夢のようなひとときです。日本からは恩師の渡邊格教授ご夫妻と私の父の勉、そして妻、真由美の祖母美江を招きました。他にバーゼル時代の研究仲間や、私の秘書エリーをはじめとするMITの友人たちも一緒でした。

ノーベル賞受賞者の肩書でいろいろご利益があるでしょうといわれますが、私が気が付くことは余りありません。1つあるとすればこういうことです。

米国は人種差別をしないように一生懸命努力していますが、それは意識の奥底に差別が残っている証しでもあります。ある会合で幾人かと一緒にテーブルに座った時、アメリカの大手新聞社のベテラン記者は私を無視するか避けるような態度でした。別の知り合いの教授がその記者に対し「利根川教授はノーベル賞受賞者ですよ」と紹介したとたん、態度が変わり話しかけてきたことがありました。この時は「ノーベル賞は人種差別の防波堤の役割を果たしてくれるんだ」と感じたものです。

ストックホルムでの記者会見やインタビューで私は、これから手掛ける研究テーマとして繰り返し「脳」を取り上げていました。

20世紀の生物学の主要な進展は、遺伝や免疫、細胞増殖など、肉体に関する発見だったといえるでしょう。そこで発見された原理は、人間だけでなく全ての動物に当てはまります。しかし、人間の心についての研究は非常に遅れていました。

17世紀のフランス人哲学者、ルネ・デカルトは心と体は別のものであり、脳を含めた体全体を研究しても、心あるいは魂というものは解明できないという「二元論」を説きました。

これに対し、DNAの二重らせん構造の解明でノーベル賞を受賞したフランシス・クリック博士は、著書『驚くべき仮説』の中で「あなた自身、その喜びも悲しみも、記憶も大志も、自己のアイデンティティーも自由意思も、実は、膨大な神経細胞群とそれに関連する分子の、反応の結果に他ならない」と書いています。つまり、脳を研究すれば心の現象も説明できるという「一元論」を唱えています。

(分子生物学者)

利根川進(22)受賞会見

「長男誕生の方が嬉しい」
思わず即答、取材攻勢に辟易

ノーベル賞受賞を知らせる日本の共同通信からの国際電話を終えてすぐ、誰かが自宅のドアをノックしました。ロイター通信の記者でした。

「昨夜からうちの前の通りで寝ていらしたんですか」と、妻の真由美が思わず聞いてしまったくらい早い到着でした。相手はウインクしながら「そうですよ」と。

それから30分ほどすると、自宅に米国の記者、日本の記者たちが次々と現れ、収拾がつかない状態になっていきました。

暫く記者たちの質問にパジャマのままで答えていたのですが、そのうち研究室のエリー・バーゼル秘書から連絡が入りました。その日はコロンブス・デーで祝日でしたが「マサチューセッツ工科大学(MIT)で記者会見を開くから、すぐ来るように」とのこと。

真由美と、この年誕生した長男の秀と一緒に出席することにしました。家での会見をいったん打ち切り、急いで着替えをして、いつもの通り車でMITに向かい、真由美は秀を抱えて後を追ってきました。

ノーベル財団からは翌日になって電話がかかり「もう知っていると思うが……」と直接受賞決定を伝えられました。インターネットがまだ実用化されていない時代。一日中電話がずっとつながらなかったようで、牧歌的なところがありました。

MITでの記者会見では、受賞の対象になった研究に関する一通りの質問がありました。その中で私の印象に残っているのは、途中で真由美が秀を抱えて会見場に現れ、私の隣に座った直後のことです。

私が例によって淡々と記者たちの質問に答えていたからかもしれませんが、一人の記者が「利根川博士、先ほどから応答をうかがっていると、今回の受賞にあまり興奮されているように見えませんが、隣に座っているお子さんの誕生とノーベル賞受賞では、どちらの方がより興奮しましたか」と、思いがけない質問をしてきました。

即座に「もちろん長男が生まれた時の方です」と。

後日、3~4年たったある日、米国南部のテネシー州に住むカトリックの神父さんから手書きの手紙をもらいました。

「最近私は、教会の講話で、あなたのノーベル賞受賞の記者会見の話をさせてもらいました。ノーベル賞受賞者が、ノーベル賞よりも息子の誕生の方がはるかに嬉しかったと言っている。それほど生命は何物にも代えがたい貴重なものです、と話しました」と。

毎日ひっきりなしにかかってくる電話やインタビューの申し込みに辟易して、秘書には「これ以降、一切の取材を断るように」と伝えてありました。にもかかわらず、彼女が一つだけ特別にOKしたところがあったのです。

それは、大リーグのボストン・レッドソックス球団が持っていたTVチャンネルからのインタビュー申し込みでした。

「レッドソックスの本拠地、フェンウェイパークのボックス席を1つ差し上げますから、出演をお願いしたい」という内容でした。

秘書は、私が大のレッドソックスファンだということをよく知っていましたし、自分も大のレッドソックスファンなので、一も二もなくOKしてしまったらしい。その後、このチャンネルはなくなってしまい、残念でしたが。

(分子生物学者)

利根川進(21)記者からの吉報

ノーベル賞に半信半疑
単独受賞、審査に高い信頼

免疫の抗体多様性の謎を解いた私たちの研究は、1980年代に入り相次いで、様々な機関や団体の表彰の対象になりました。

生物分野の基礎研究を対象にしているコロンビア大学の「ホロビッツ賞」を82年に受賞しました。

植物細胞の中で遺伝子が動く「トランスポゾン」という現象をトウモロコシで見つけて、翌年にノーベル賞を受賞することになるバーバラ・マクリントック博士との共同受賞でした。ヒトで遺伝子が動く現象は免疫でしか見られませんが、その共通点を対象にした面白い組み合わせの受賞でした。

83年にはカナダのガードナー国際賞、86年にドイツのロベルト・コッホ賞、87年に米国のラスカー基礎医学賞と、生物学・医学分野の著名な受賞が続きました。

日本でも83年の文化功労者に続いて、84年に文化勲章を頂きました。この時は、当時の在ボストン日本総領事であった谷口禎一さんが公邸で、お祝いのパーティーを開いてくださり、ボストン交響楽団の音楽監督をされていた指揮者の小澤征爾さんも出席。彼のピアノ演奏で「青い目の人形」をみなで歌って楽しんだのを思い出します。

その頃、そろそろ免疫以外の研究をしたい気持ちが強くなってきました。免疫分野にはまだたくさんの研究テーマが残っていますが、これから先は医学分野の人たちがやる研究になると感じていました。私は何か大きなミステリーがないと興味を抱いて研究に打ち込むことができない性格で、次は何をしようかなと、頭の隅で考えていました。

そんな日々を送り、87年10月12日を迎えます。

早朝ボストンの自宅で、電話のベルで起こされました。以前から面識があった、東京の共同通信の記者、田村和子さんでした。「スウェーデンのカロリンスカ研究所が、今年のノーベル生理学医学賞を利根川進教授に贈ると発表しました」と。

寝起きで半信半疑でしたが、私が最初に口にした言葉は「共同受賞者は誰ですか」。

すると電話の相手が男性の声に変わり「他の研究者の名前は出ていません。単独受賞のようです」との答えでした。

どうしてそんな質問をしたのか――。これには理由があります。

同じ87年のラスカー基礎医学賞は、私とカリフォルニア工科大学のリーロイ・フッド教授、ハーバード大学のフィリップ・リーダー教授の3人に贈られました。フッド、リーダー両教授とも抗体多様性の謎を解く研究で、私と正反対の「生殖細胞系列説」に立っていました。

ところが、我々が次々に発表するデータを見て形勢が悪いと判断したのか、途中から主張を百八十度転換したばかりでなく、いかにも自分たちが「体細胞変異説」の証明者であるがごときキャンペーンを展開していました。

ラスカー賞は米国医学界で大変伝統ある賞です。受賞者を決めるラスカー財団は、米国のこの分野の重鎮といえる研究者たちを無視できなかったのでしょう。

その点、ノーベル賞委員会とカロリンスカ研究所は、研究の成果のみに的を絞って私を単独で選んでくれたようです。ノーベル賞が、他のもろもろの賞とはかけ離れた権威を維持し、広く尊敬の対象になっていることの理由を、身をもって感じた一瞬でした。

(分子生物学者)