宮内義彦(25)遅々として

改革前進、実感できず
小泉首相、力強くサポート

規制改革を推し進める政府の組織は苦い経験を経て、民間出身者のみの構成となった。これで規制を変えていく方向性は生まれたが、それを実現するため、委員が自ら相手官庁と折衝するという大きな負担を背負うことになる。

組織の運営は政府の事務局が担うが、中身や結論は委員の侃々諤々が大きな意味を持つようになる。これがほかの政府審議会にない特徴で、その伝統は今の規制改革会議も受け継いでいるはずだ。

成果を上げ始めたのは1990年代半ば。95年4月、行政改革委員会に規制緩和小委員会が発足し、座長に日本IBM会長の椎名武雄さんが就いた。小委員会は論点を矢継ぎ早に公表し、規制緩和を推進する意見をまとめあげ、村山富市首相に改革を迫った。

翌96年3月、橋本龍太郎首相の主導で改訂版の規制緩和推進計画を閣議決定し、11分野の1797項目にわたる改革を実行することになった。あらゆる項目を俎上に載せた座長・椎名さんへの反発は大きかった。規制に守られた業界や、業界を応援する国会議員の攻撃に椎名さんは体調を崩し、座長を退くことになる。委員だったわたしは、4月にその後任を仰せつかった。その後、約11年間、委員長、議長などとしてこのテーマに関わり続けることになる。

わたしたちが当初取り組んだのは民間経済活動への規制だった。業法で守られた参入規制、許認可、価格統制など時代とともになくすべきものがほとんどだった。撤廃・緩和は毎年着実に進んでいった。

この時期に実現させた規制緩和の数々は、当時、規制するのがふつうだと考えられていた。携帯電話の利用者が電話機をレンタルでしか使えなかったのを自由に買えるようにする「売り切り制」の導入、大都市圏の都心部などの容積率緩和や金融機関による金融市場からの資金調達の手段多様化――などだ。

99年4月、小渕政権は規制政策の主眼について緩和から改革へと舵を切った。撤廃・緩和だけではなく、独占禁止法を強化したり、企業情報の開示を促したり。経済活性化の基盤となる公正な市場作りの重要性を同時に意識するようになったからだ。

わたしは中央省庁の再編とほぼ同時に発足した総合規制改革会議の議長に任じられた。小泉純一郎首相が登場したのはその直後だ。構造改革を旗印に掲げた小泉さんは、どの首相よりも強力に改革を支えようとしていた。この時期には医療や教育など制度化しているシステムや公共サービスといった社会的規制がテーマになっていた。規制の岩盤にぶち当たったのだ。

社会的規制は経済的規制とちがい、人びとのくらしを守るために存在する。だから経済原理を優先させてゆるめるのはまかりならん。改革に抵抗する人びとは猛烈な反対運動を展開した。本当にそうだろうか。ほんの一例だが、医療の分野では保険外の薬や治療法を用いた途端、保険部分も自己負担となる。そのため画期的な新薬や治療法を諦めざるを得ない患者がいるのを見過ごすことはできない。

岩盤のような規制に守られ既得権益を手放さない人たちがいるのが問題の本質ではないか。記者会見で改革の進み具合を尋ねられたわたしは「遅々として進んでいる」と答えたが、進んだ実感はなかった。

(オリックス会長)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。