宮内義彦(19)球団買収

仰木監督の下、リーグV
「がんばろうKOBE」で一丸

オリエント・リースは何の会社なのか、分かりにくくなっていた。1980年代に加速させた事業の多角化のおかげで、リース業とは呼べなくなっていた。86年春、専門部署を社内に設け、企業イメージの再定義を本格化させた。社名を変えるつもりはなかったが、ブランド戦略の立案を委託したコンサルタント会社の結論は「リースを外したほうがいい」。

新社名候補から「オリックス」と「オー・エル・シー」が最終選考に残った。甲乙つけがたいので異例だが役員会での投票で決めることにした。結果は同数。結局、議長のわたしに一任され、89年4月からオリックスにすると決めた。わが社をいろんな人に知ってほしいとの願いを込めた。ところがその直前、思いがけないニュースが舞い込んだ。

88年8月下旬、三和銀行グループが催した視察旅行に、大阪営業部の西名弘明君が参加した。その席でダイエーの南海ホークスの買収説が話題になり、彼は「わが社もプロ球団を持てば社名もすぐ浸透するだろう」などと話したらしい。半月後、西名君に三和銀から電話が入った。「ブレーブスに関心ありますか」。阪急電鉄が球団の売却先を探しているとの知らせだ。冗談ではないかと耳を疑ったが、わたしは大いに関心ありと即答した。こうして球団買収が成立する。

オリックス・ブレーブスとして初めて戦った89年のシーズンは開幕8連勝。わが社始まって以来の衝動買いは出足快調だった。

阪急側の売却条件は当分の間、西宮球場をフランチャイズとして使うことだった。甲子園球場の阪神戦はいつも満席なのに、西宮球場は閑古鳥が鳴いていた。おまけに西宮市などは競輪の競技場としても使っていた。ブレーブスの新オーナーとして市長に挨拶に行くと「競輪の日程を考えて野球をしてほしい」という。こりゃ駄目だと思い、91年には本拠をグリーンスタジアム神戸に移し、チーム名もブルーウェーブに変更した。

93年のシーズン末、近鉄の仰木彬監督が辞めたと聞いてオリックス監督への就任を要請した。仰木さんはわたしと同い年。魅力あるリーダーだと直感した。初めて采配をふるった94年はパ・リーグ2位。イチローが210安打の新記録を作った。

95年1月17日、神戸や淡路島をマグニチュード7.3の大地震が襲った。阪神淡路大震災である。東京で故郷の惨状を見ながら何もできなかった。「神戸でのプレーは難しい」という空気が地元を覆った。施設の被害は大きくなかったが、あれだけの激甚災害だ。しかし、わたしは逆に今こそ予定通りにやろうと決断した。地元の人々がふと息抜きに観戦に来てくれればいいと思った。

「がんばろうKOBE」を掲げて闘うチームを、市民は熱心に応援してくれた。9月19日、西武を8―2で下してリーグ優勝を決めた。「がんばろうKOBE」は流行語大賞に選ばれた。しかし日本シリーズはヤクルトに1勝4敗で負けてしまった。

翌年9月23日にはリーグV2を達成した。日本シリーズの相手は巨人。4勝1敗で雪辱を果たし、神戸で私は胴上げされた。今のところ日本一はこれが最初でただ一度の経験だ。

(オリックス会長)

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