宮内義彦(15)社長就任

45歳、責任の重さに恐々
多角化、船舶が稼ぎ頭に

乾恒雄さんが会長に、わたしが社長になったのが1980年12月。45歳のわたしは、取締役の最年少ながらも経営者としての鍛錬を積んだつもりになっていた。それでもいざ社長になると、なにか起きたときに責任をとるべき者が自分しかいないという事実を知り、がくぜんとした。

実際には多くの先輩役員が懸命に若い私を支えてくれていた。河本明三、岩井靖、楫西(かじにし)省吾さんをはじめ、一緒に働いた多くの役員の顔が目に浮かぶ。「責任は僕がとるからな」という乾さんの一言にどれほど救われていたことか。

そんな「おそれ」を感じながらも社業は拡大していた。トップセールスに海外を飛び回った。だが思わぬ落とし穴が待っていた。81年夏、病気療養を余儀なくされたのだ。

香港に滞在中、歯の痛みにおそわれ、現地の歯医者に駆けこんだ。痛み止めの注射をうってもらったのだが、どうやら注射器を使い回しにしていたらしい。帰国後、微熱がなかなか下がらない。家族で食事に行ってもおいしいと感じない。検査だけを受け、また海外出張に出たら、本社から呼び戻された。検査結果はB型肝炎ウイルスにやられたことを示していた。帰国と同時に聖路加国際病院に入院した。

主治医に「宮内さん、肝炎には特効薬がないんですよ。地道に体力をつけて治すしかないですね」と諭され、がっかり。入院期間は1カ月ほどだった。その後数カ月間、大人しく過ごしながら栄養をつけ、治癒につとめ、やっと抗体ができ完治した。大学時代の肺結核につづき、2度目の病欠だった。

これではいかん。社長たる者、なにより健康第一だ。そう痛感した。それを最後に、大病とは縁がない。

70年代に入り、多角化路線は広がりを見せ始めた。乾さんを補佐するかたちで、わたしが立ち上げに携わった事業も少なくない。わたしたちが不案内な分野は合弁方式で進出した。

印象に残っているのは自動車リースだ。73年にオリエント・オート・リース(現オリックス自動車)を設立した。顧客からは車のメンテナンスまでを含めて総合的なサービスをしてほしいという要望が強かった。そのノウハウを得るために、新会社は大阪の修理会社との折半出資とした。

個人向けにお金を貸し出したいとも考えたが、いわゆるサラ金みたいなことはしたくない。小口金融の実績をもっていたフランスのパリバグループの1社と合弁でつくったのが、79年設立のファミリー信販(オリックス・クレジット)だ。オフィス向けに内装品をリースするオリエント・リース・インテリア(のちのオリックス・アルファ)も、合弁方式で設立した。

製造業向けに機械設備の精度を測る機器をレンタルするオリエント測器レンタル(オリックス・レンテック)は、USリーシングのノウハウを習得して設立した。

その後大きな収益源となる船舶や航空機のリースが本格化しだしたのも、このころだ。商社が船舶事業の一環として手がけていたのにヒントを得て、71年に船舶リースをこぢんまりとスタートさせた。

日本は船舶王国への道をあゆみ、船舶リースは急成長を遂げた。わたしが社長になった数年後にはグループの連結利益の30~40%を稼ぐようになっていたが、突然の船舶不況に見舞われる。

(オリックス会長)

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