宮内義彦(14)乾恒雄さん

社の発展へ確たる道筋
後継宣言後、修練の5年間

1910年(明治43年)生まれの乾恒雄さんは、都会的で洒脱な、それでいて筋が一本とおった明治の男だった。あまたある金融サービス会社のなかでオリックスが一味違った存在でありつづけられるのは、乾さんが確たる道筋をつけてくれたからだ。

大阪の法曹一家の出身。父と兄は弁護士や裁判官をつとめたが、末っ子の乾さんだけが慶応の経済学部へすすみ、三和銀行に入った。お母さんと一緒に歌舞伎を観に行くような子供だったという。

銀行では国際畑を歩んだ。サンフランシスコ、ロンドンに駐在、ニューヨークの支店長を務め、64年にオリエント・リース創設のため54歳で帰任した。華々しい経歴にみえるが、当時の銀行マンとしては必ずしも本流とはいえない。

三和銀や日綿實業の子会社として発足したオリエント・リースが独立自尊の道を走りだした背景には、乾さんの3つの信念がある。

第一は、人事をふくめて親会社からできるだけ自立する。第二は、会社はパブリックな存在にして、株式を公開する。第三は、海外に目を向ける。そして、これらの相乗効果で誇らしい会社をつくるという意志を、わたしも共有していた。

わたしとの年の差は25。この年齢差を考えても、わたしを後継社長に据えるつもりはなかったはずだ。しかし参謀役としてぴったり横について仕事をする機会がどんどん増えていった。乾さんのもとで事業多角化、国際展開、上場準備などを推し進めるうちに「宮内君、いくつになった?」と聞かれることが増えた。「次は君に任せるから」と告げられたのは、わたしが筆頭常務に昇格した75年。40歳の時だ。

このとき乾さんは60代半ば。毎年、人事の季節になると三和銀の本店に出向いて「そろそろ宮内を社長に」と、頭取に掛けあっていたようだが、実現に5年を要した。

この5年間はわたしにとってトップに就くための修練の期間でもあった。後継宣言をうけたのち、経営や事業に関する重要な決定は徐々にわたしがするようになっていた。決定を乾さんに報告するときは、いつも次の手順を踏んだ。

まず「今こういう問題に直面しています」と説明し、対応策はA、B、Cの3つあると告げる。そして「わたしはプランBを採用しようと思います。なぜなら……」と続ける。

乾さんは決まってこうこたえた。「ひと晩考えて返事する」。翌朝、一番に呼ばれると「プランBでいってくれ」。考えを覆されたことはなかった。いったい乾さんはひと晩かけて、なにを、どう、考えていたのか。ある朝、乾さんの秘書に聞いたら「昨夜はお座敷で遅くまでいらっしゃったようですよ」。信頼されていることを実感した。

経営や事業に関する基本方針の報告は、80年に乾さんが会長、わたしが社長になってからもつづけた。その頃になると「ひと晩考える」こともなくなっていた。88年、阪急ブレーブスを阪急電鉄から買いとる計画を伝えたときは、さすがに目を白黒させながらもひと言「そうか」。

酒は強くなかった。ちょっと歳をとった柳橋芸者の三味線で長唄を語るのが好きだった。82歳で名誉会長に退かれたあとは大阪に居を移され、大阪本社に毎日、顔を出された。それは88歳で亡くなられる前日まで続いた。

(オリックス会長)

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