宮内義彦(12)独立

準備1年、上場果たす
東南アジアに次々進出

出向元の日綿實業からは帰ってくるようにという話が何度かあったが、とても動けないと思ったので、もう少し待ってほしいといつも答えていた。最後にはニューヨーク赴任の話が来たが、今は帰れませんと返答した。わたしの答えは日綿内で意外感をもって受け止められた。

1969年2月、乾さんの奔走もあり、オリエント・リースに転籍することを許してもらい、正社員となった。翌月から日綿の平社員から部長職の待遇となり、月給がぐんと上がった。

上場準備にあたったのは竹田駿輔、中島洋の両君とわたしの若手3人。財務の基本や株式市場のしくみ、配当政策のあり方を証券会社にかよいながら、にわか勉強した。

設立当初、USリーシングの出資はかなわなかった。外資規制に引っかかったためだが、67年冬にようやく20%出資が実現していた。ショーンフェルドさんに上場計画を伝えにゆく役目が当然のようにわたしに回ってきた。「上場価格はできるだけ安く設定し、初値がそれを上回るようにし、その後も株価が上がり続けるようにしたいのです」

証券会社に吹きこまれたとおりに話すと、彼は怒った。「お金を歩行者にばらまくようなものじゃないか!」。そしてふたつのことを諭された。ひとつは、既存の株主の利益を損なってはならない。もうひとつは、上場価格は企業価値を正しく映した株価であるべきだ。

この教えは資本の論理の厳しさを実感させた。ショーンフェルドさんは事業展開や資金調達の師でありつづけた。

70年3月、わたしは取締役に就任した。34歳だった。大証2部への上場にこぎ着けたのが同年4月。売り出し価格が300円、初値は505円をつけた。その後、71年4月に東証2部、72年3月に名証2部、そして73年2月に東名阪の1部に上場を果たした。

準備期間はわずか1年弱。手荒い作業だった。それほど乾さんにせっつかれていた。当時は発行済み株式を役員や社員に割り当てる制度があった。上場時期をもう1年遅らせていれば、会社の礎を築いた乾さんに相応のお金持ちになっていただくことができたと思う。本人にそんな気はなかっただろうが。

乾さんのこの英断がなければ、わが社は商社か銀行の一子会社として存続するのがせいぜいだったろう。上場を機に72年12月、本社を東京に移し、社長以下われわれも創業の地をあとにした。東京一極集中を無視できないという判断だった。

乾さんはリース事業のない海外にも目を向けた。東南アジアへの進出だ。この仕事もわたしにお鉢が回ってきた。70年春、丸山博君と各国の市場調査に出張したが、なかなか手応えはつかめない。それでも進出先を検討し続けた。

まずは香港として金融会社ジャーデン・フレミングが興味を示してきた。だが、最後になって断られた。それなら単独進出だ。こうして海外進出1号は100%子会社として71年9月に発足した。

次はシンガポール。政府系銀行と華僑資本の銀行との3社合弁でスタートを切った。その後はマレーシア、ブラジル、米国、韓国、インドネシア、フィリピン、タイ――と、ほぼ1年に1社のペースで海外ネットワークを広げていった。

(オリックス会長)

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