宮内義彦(11)成長

親会社頼らず自前営業
3課長兼任、東京と大阪奔走

オリエント・リースが動き始めた時期は、東京オリンピックや大阪万博などで戦後日本が走り始めた時期とほぼ重なっていた。資金需要も強く、リース取引は歓迎され受け入れられた。

当初、会社の中心だったのは出向・寄り合い所帯の人たちで、年齢構成がいびつだった。生え抜きの社員を早く育てる必要性もあった。創業の翌年、1965年春には新卒採用を始めた。

総合職として入社したのは男性4人。彼らは新設会社に入りたいというやや変わり者ばかりだったが、のちに社の中核を担うようになる。

同時に67年頃からは中途採用を積極化させた。業容の拡大が急だったからだ。

この小さなリース会社を生かしつづける程度の仕事は、主に3商社の機械部門が持ち込んでくれた。しかし、それはUSリーシングで学んだリースの商売とはかなり違ったものだった。

アメリカの本家が扱っていたのはコンピューター、複写機、キャッシュレジスター、自動販売機など、経費的な資産が主力で、それを月々リース料として処理するのが合理的とされていた。ところがわが社には「パン製造設備一式」「発電設備一式」のような商談が舞い込んでくる。親会社の庇護はありがたかったが、わたしは早く本来のリース業を開拓したかった。

社内で相談して67年6月、大阪本社と東京支店に開発課を新設してもらい、親会社の機械営業ではあまり扱わない機種の自前の営業を始めた。

わたしは企画課長のほか、この新設の課長も兼任し、3種類の名刺を持って大阪と東京を走りまわった。

幸いなことに新しい部門のリース契約の商談が徐々に増えてくる。折しも日本の産業界は高度成長の波にのってオートメーション化を推し進めていた。コンピューターやコピー機は特に中小企業にとって買うには資金負担も大変だし、技術革新のテンポも速かったため、リース契約のほうが理にかなっていた。

加えて、これらの機械の導入は1台か、せいぜい数台。多額の取引で手数料を稼ぐ商社のビジネスモデルとは、相いれなかった。自社の収益にプラスの効果をもたらすと考えてリース業に進出した商社側と、親会社の思惑をよそに独自路線を歩みだした子会社との間の溝は、微妙に広がっていた。

宮内は一体何をしているんだ、という声が日綿側から聞こえてきたが、わたしには社業の拡大がうれしかった。無から始まった会社が着実に伸びていく喜び。抱いていた不安が一つずつ解消してゆく。

オリエント・リースは意外にうまくやっているようだ。商社や銀行業界の間にこうした見方が広がりつつあった。各社がリース子会社の設立に動いたのは、このころだ。

67年に社長になった乾恒雄さんは株主会社に囲まれ、営業範囲や人事を縛られる現況から徐々に「企業はパブリックな存在であるべきだ」と考えるようになり、親会社からの独立を志した。限られた少数株主に支配されるより、投資家に広く株式を公開したいとの思いが強まっていった。

69年の春先、わたしは乾社長に呼ばれ、こう告げられた。「株式上場する準備をはじめてほしい」。社長室長になっていたわたしにとって、大仕事へのチャレンジだ。

(オリックス会長)

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