宮内義彦(7)帰国

無事卒業、MBA取得
日綿就職、待遇は新卒並み

ワシントン大学は2年目も勉強、勉強の生活だったが、金曜の夜になればやっとひと息つける。土曜は学内のスタジアムでアメリカンフットボールを観戦するのが楽しみだった。そして日曜は再び机に向かう。関西学院大のキャンパスも美しかったが、ここのキャンパスも見事なものだ。

苦労した経営学修士(MBA)コースもいよいよ終盤。卒業には、(1)グレード3.0以上の成績をとる(2)論文をパスする(3)卒業試験に受かる――の3つの関門をクリアしなければならなかった。

結局、勉強するのが日常生活になってしまったお陰で、結果的には博士課程に進学できるグレードの成績はとれた。初期の日米繊維摩擦を論じた論文は、ワシントンに行ったときに米商務省で仕入れた資料がものを言ってパス。卒業試験は時期を7月に遅らせて受験し、合格した。8月には晴れて帰国だ。

いま思い起こしても艱難辛苦の2年間。勉強にすっかり飽きてしまった。といってもこの間に学んだものは実に大きかった。自分の世界が広がったし、アメリカ人の思考方法が何となくわかった。ビジネスの基本を考える力ができたように思う。

2年目の12月、シアトルにくらす日本人留学生だけでクリスマス・パーティーをしようという話が持ち上がった。手弁当で日本食を持ち寄り、日本語で心おきなく歓談する。いつも無意識のうちに緊張を強いられていた留学生活だったのだろう。

集った日本人は7、8人。女性は3人ぐらいだった。そのひとり、語学学校にかよっていた中川伸子さんが、のちにわたしの妻になるひとだった。数少ない楽しい集いが、わたしたちにとっては大きな出会いの場となった。

1960年8月、わたしは東京港に降り立った。2年前と同じ、木材運搬船での船旅。アリューシャン列島の近くを航行し、2週間で太平洋を横断した。

早速、その足で就職活動をはじめた。MBAをとると、就職に有利なばかりか、待遇だって大卒より評価してくれるはずだ。アメリカでそうした実例を目の当たりにしてきた。貿易業務にたずさわっていた父の影響で、志望業種は総合商社だった。

父の紹介で三井物産の門を叩(たた)くと「新入社員を8月に受け入れた前例はありません」。見込みがないとあきらめた。じゃあ、と少し針路を変更してアメリカの会社はどうか。留学経験者を求めていた日本アイ・ビー・エム(日本IBM)を訪ねると、すぐに採用しますといわれた。

しかしわたしが天(あま)の邪鬼(じゃく)なのだろうか、「給料を日本の会社の2倍は出す」と言われたのが引っかかって辞退した。カネでつられたというので名が廃ると思ったのは確かだ。

関西に戻り、大阪に本社があった日綿實業(のちのニチメン、現・双日)にチャレンジすると、すぐに専務が会ってくださった。「ウチに来なさい。時期はいつからでもいいから」。父も陰で応援してくれていたので直ちに就職した。

配属先は調査部。経営計画をつくる企画部門の下請け作業が待っていた。商社らしくない部署だなと思っていたところに、人事部の若手社員から「キミは2年遅れだから」と告げられた。給料を大卒の新人と同じ水準にするという宣告だった。

(オリックス会長)

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