宮内義彦(5)大学時代

肺結核で療養中、猛勉強
半年後復学、なんとか卒業

関西学院の高校生活は中学部の延長だった。グリークラブはつづけていた。ミッションスクールだから、クリスマスになるとヘンデルの大曲「メサイア」を歌う。

混声合唱の曲なので、女声パートは山ひとつ隔てたお嬢様学校、神戸女学院のコーラス部と一緒に練習する。これは同級生たちに羨ましがられた。結婚にいたった仲間も何人かいるし、いまだに時々、同窓会がある。

それはそうと、3年になって大学進学を意識するようになると「一貫校ならではの不安」が頭をよぎるようになった。10年間を伸び伸びと、という親心はありがたい。しかし受験競争をかいくぐってきた他校の猛者連中についていけるだろうか。

不安が膨らむ中を商学部に進んだのは、やっと貿易業に復帰していた父の影響だ。

中高時代の反動だろう、講義には心を入れかえてのぞんだ。英会話は若かりし頃の父と同じパルモア学院の夜学にかよいつづけた。英語が必要だという思いは、ずっと強くなっていた。出席をきびしくとる夜学だったので、食事もとらずに通った。

それとは別にグリークラブの練習だ。全国一位が常連の大学だけに、練習は高校時代より格段にきつい。講義より練習優先が当然。このままではからだがもたない。思い切って退部しようとしたのと、肺結核が見つかったのが同じとき。2年生を終えようとしていたときだった。

冬になって熱がなかなか下がらない時期がつづいたので大学の診療所で診てもらったら、先生がすぐに入院が必要だとおっしゃった。少なくとも1年間は休養が必要だという診断。充実した大学生活はここで一挙に暗転した。

入院はしなかったが、自宅療養を余儀なくされた。先生が往診に来てくれる日々。

しかし人間万事塞翁が馬。こうなれば、と開き直った気持ちで勉強と読書にいそしむ。中高時代の不勉強を挽回しようとつよく意識したわけではないが、ほかにすることもないので猛然と読書をした。すべて独学だった。

自宅療養は結局、半年ですんだ。ストレプトマイシンなどよく効く薬が次々に登場したのが幸いした。ぶらぶらと復学したのはちょうど秋の試験シーズン。講義にまったく出ていないのに、成績はぐんと上向いていた。

療養中の出席とりは同級生がタイミングよく代返してくれたし、完璧な講義ノートを貸してくれる友もいた。

こういうところはずっと一緒にやってきた仲間だからこそ。なにより仲間に遅れることなく、一緒に卒業式に出たい。一心不乱に勉強したのは、その思いがわたしの心を支配していたからでもあった。

からだはすこしずつ復調していた。ケインズ経済学の和田繁教授のゼミに所属し、経済を基本からきっちりと教わった。卒業前には、和田先生から大学にのこったらどうだと声をかけていただくまでになった。ただ、わたしにはアメリカ留学という目標があった。

留年しても致し方なかったのに、4年で卒業できたのはうれしかった。中学でビリから数えたほうが早かった成績は、大学卒業時には大変よかった。それでも大学後半の2年間は、いまもあまり思い出したくない。

(オリックス会長)

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