宮内義彦(4)関学中学部

合唱部入部、次第に夢中

野球少年、口説かれその気

姉佳子の転校と私が小学校を卒業したのを機に、わたしたち一家は佐用の生活に別れをつげ、戦争に傷ついた故郷に戻った。

学制改革の翌年、1948年の春、わたしは関西学院の中学部に入った。

関西の難関校のひとつだが、受かれば大学までの10年間をエスカレーター式に上がってゆく。受験に明け暮れてほしくないという親心だった。わたしにとっての入試体験は生涯でこの1度だけだ。

佐用小学校の成績は1、2番の常連だったが、関学生になったとたんにビリから数えたほうが早くなった。ショックだったが、しだいに低空飛行に慣れてくる。よくできる仲間のなかにいることに、居心地のよさを感じるようになっていた。

関学中学部は学制改革を機に、イギリスのパブリックスクールをモデルにした学校をめざすようになっていた。アメリカ人の先生が何人もいたし、キャンパスは日本一美しいといわれていた。

中学部をリードしたのが部長の矢内(やない)正一先生だ。全人教育をめざしていた。生徒一人ひとりに気配りを欠かさない方で、つねに励ましをいただいた。キリスト教の教えに基づき「地の塩となれ」「世の片隅を照らせ」と説きつづけた。成績が上がった生徒には葉書を出し、褒めてくれる。だれもがそれを目当てに勉強した。受験シーズンには受験生一人ひとりと面談し、落ちた子供にも奮起を促す葉書を出されていた。

多感な中学生にとって、先生方の迫力ある教育は大きな影響を与えた。わたしは今も矢内先生に褒めてもらえるだろうかなどと考えたりする。

高等部までの6年間つづけた朝の礼拝のおかげでキリスト教の考え方が身についた。「正しい行いは天がみてくれている。世間の目は気にするな」。この教えはずっと心の支えになっている。

わたしは野球少年だった。野球部の門を叩こうと心に決めていたのだが、畑違いのグリークラブに入ってしまった。経緯はこうだ。

音楽の授業のとき、担当の佐藤和愛先生が「宮内君、いい声してるね。入らない?」。それまで、声を褒められたことも自分で意識したこともなかったので、思わず「ハイ」。

声変わりする前、ボーイソプラノのわたしたちは次第にコーラスやハーモニーに魅了されていく。

関学グリークラブは日本最古の合唱団だ。大先輩に山田耕筰や津川主一、作家の今東光がいた。聖路加国際病院の日野原重明先生もいる。中学部グリークラブは末弟だ。

1年生のとき、西日本代表としてコンクールに出演し、NHKのラジオを通じて競ったのだが、慶応普通部に敗けてしまった。十数年前に週刊誌の掲示板コーナーで「かつてのライバルだった方々は現在でもコーラスをつづけていらっしゃるのでしょうか」と呼びかけた。たちどころに往時のメンバーから連絡があり、50年ぶりの初顔合わせ合唱会を慶応三田で開いたのは楽しい思い出だ。

夏は母に連れられて甲子園球場に高校野球を観に行った。学校の帰り道にある西宮球場にもしばしば阪急戦を観に行った。試合終盤の8回になるとタダで入れるので道草にうってつけ。何十年かのちに、自分がこのチームのオーナーになるとは夢想だにしなかった。

(オリックス会長)

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