宮内義彦(3)敗戦体験

権威主義疑問芽生える
米兵の通訳する父に憧れ

父がつとめていた松林組は海軍へ物資をおさめる軍需工場に指定されていた。戦局は悪くなる一方。工場を神戸から岡山県境に近い兵庫県佐用郡佐用町に移すようにという海軍の命を受け、父は新工場「昭和木材工業」の責任者のひとりとして赴任した。

祖母とわたしは大畠を離れ、ふたたび一家6人が佐用に身をよせてくらすことになった。瀬戸内海と異なり、山あいの田舎町だ。

2度目の疎開生活はこうして始まった。家は工場に近い農家の離れを改装した粗末なもの。何しろ食べるものが手に入りにくい。佐用の人々にとっては、田畑を突然つぶして新設された工場で大勢の人が働くことは、大事件だったのだろう。父は忙しくしていたが、食糧難が迫っていた。

戦争は急速に終幕に近づいていた。神戸か姫路を空襲した帰りだろうか、米軍のB29爆撃機が佐用の上空で爆音を立てて方向転換するのを眺めていた。だが佐用に焼夷弾が降ってくることはなかった。

玉音放送を聞いたのは佐用国民学校4年生の夏休み。じりじりとした残暑の中を、正午から重大放送があるからといわれ、なぜかラジオを庭に持ち出してわたしたち家族は近所の人たちと耳を傾けた。だが9歳の少年の耳にその音声ははなはだ不明瞭だった。

「これは敗けたんや」と、父がぼそっと言った。その後、6人そろってお昼に食べたのはジャガイモだった。粛として声なしだった。

この敗戦体験はわたしの人格形成に少なからず影響を及ぼした。それまではペラ紙1枚の新聞に、恐ろしいニュースばかりが載っていた。「広島に新型爆弾か」「ソ連、満州に侵攻」などの見出しが目に焼きついている。そして、「一億一心」「鬼畜米英」の教育が8月15日を境に、掌を返したように「平和国家日本の建設」である。

大人は信用できないと思ったし、権威主義への疑問も芽生えた。のちに政府の規制改革の仕事に携わったとき、行政のやることがすべて正しいと思えなかったのは、これが原点だったのかもしれない。

父は佐用工場の後始末と神戸の本社とを行き来していた。わたしたち家族は引き続き佐用にとどまったので、戦後の食糧難と住宅難をしのぐことができた。それでもインフレは厳しく、カメラや着物、ミシンなどが家から次々と消え、それが家族の食べ物に変わっていった。その頃、ハワイに移り住んだ大畠出身の人から、南国の食べ物が届くことがあった。缶詰のパイナップル、グラニュー糖……。まさに天国からの贈り物だった。

敗戦後は国政選挙が頻繁にあった。選挙を監視するために、進駐軍が佐用にもやってきた。4人1組でジープで乗り付けてくる。日系二世の隊員が通訳をつとめるはずなのだが、お世辞にも日本語が上手いとはいえない。その都度、町役場から依頼がきて、父が世話役を仰せつかった。

若い兵隊の通訳など嫌だよといいながら、父は自宅へ彼らを招き、町から特別に支給された牛肉や酒でもてなした。わからない言葉を操る父を、わたしは不思議な気持ちで見ていた。英語をしゃべりたいと子供心に思った。

通訳の息子には役得があった。ジープに便乗させてもらい、通りを走り抜けるのだ。ぽかーんと口を開けた友だちの視線を、背に感じていた。

(オリックス会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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