「私の履歴書」連載を終えて

およそ1カ月ぶりのブログです。9月は日本経済新聞で「私の履歴書」を連載していました。ご覧いただいた方もいらっしゃるかと思います。そちらの原稿に忙しく、申し訳なかったのですが、ブログの方は休ませていただきました。

さて、その連載を通じて私の過去を振り返り、改めて感じたのは、10年単位で世の中の動きが大きく変貌してきたなということです。例えば、私が生まれたのは1935年ですが、その後10年ごと、45年、55年、65年とみても、すさまじい変化を遂げているのです。

生まれた年には満州国皇帝来日などの出来事があったようですが、日本はすでに中国で泥沼のような戦争に入っていました。これが第2次世界大戦へと切れ目なくつながり、敗戦の45年、結局日本は完膚なきまでに打ちのめされて領土はおろか多くの生命と国民の財産を失います。

そして敗戦国の国づくりは苦難の中、焦土の中から徐々に立ち直り、経済的に何とか前向きになれるのに10年かかった。56年の経済白書は「もはや戦後ではない」と日本の復活を高らかに宣言します。そして経済大国の道を走り始める65年からの次の10年。前年の64年には東京オリンピック、新幹線開通と明るい話題があり、人びとは車、カラーテレビ、クーラーいわゆる3Cを求める時代となっていました。大きく社会世相も変化したのです。

そういう観点からすると90年代から始まる「失われた20年」というのは、とてつもない長い期間にわたる損失だと感じざるを得ません。

89年にベルリンの壁が崩壊。ソビエト連邦が瓦解し冷戦が終わって世界は一つとなり、グローバル化とIT化で地球は小さくなってきました。世界は動き出しましたが、日本は長きにわたり目標を失ったがごとき状況でした。明治以来の日本の歴史のなかで特筆すべきことです。

高齢化、少子化、人口減、デフレ、格差。後ろ向きの言葉があふれ、社会を担うべき若者たちが希望をもって生き生きとものを考えなくなったように感じます。国全体が漂っていました。

もちろん、日本人が到達したレベルは高いのです。これほど安寧に暮らしている国民もいない。こんなにおいしいものを食べている国民もいないし、着ているものも上等です。昔は「うさぎ小屋」に住んでいるとやゆされていた住宅も、決して他の先進国に負けないレベルになっています。

といって現状に満足していては、大変なことになります。目標を失った20年の停滞の間に世界はすっかり変わり日本の地位はガタ落ちしていったのです。

バブル崩壊が91年だとして、金融機関問題の一応の整理がついたのは98年ごろでしょうか。この間、何をしていたのでしょう。「バブル崩壊」という事実を認めたくなかったのかもしれません。その結果、対策も後手に回った。住専問題では確か6900億円の損失処理で住専国会は空転しました。

しかし、事実はそんなものではなかった。日本を代表する金融機関の経営がおかしくなるような大問題を秘めていたのです。このバブル崩壊の後始末をしている間に国から活力がなくなりました。この20年の間、日本の停滞がはっきりしてきたのに対し、新興国経済が成長し続けいつの間にかG20が無視できなくなるところまで来ました。

特に最近の日本の停滞には想定外の要素も重なっています。民主党政権の混乱、東日本大震災など、国民生活にとってプラスになる材料が少なかったと思います。

この閉塞感を打破すべき大きなうねりが来たのではないか。こう思わせるのが昨年末の総選挙で勝利した安倍政権です。久々に大きな力をもった政権が誕生し前向きな政策が打ち出せるはずだからです。日本が変わるきっかけがつくられるかもしれません。今こそ停滞した20年を取り戻し社会に活気が出るようにしたいものです。

そして2020年の東京五輪開催という幸運が加わりました。必ずしも国として大きな目標とは言えないかもしれませんが、前向きな目標ができた。

世界に冠たる五輪をやろう、街をきれいにしよう、原発事故も終息させよう、東京だけでなく日本全体に波及するような観光戦略を立てよう。五輪をそういう国づくりの目標にしたいものです。改めて日本を世界に売り出すチャンスです。

多くの人は長きにわたる沈滞に飽き飽きしているはずです。しかし、どのように前向きに物事を考えればよいのか思い出せない。あるいは経験したことがない人びとも増えています。

とにかく個人も社会も健康で前向きに生きる、すなわち「考え方を未来思想にする」のです。そしていい時代、社会をつくり再び日本が元気になることで世界にいい影響を及ぼしたいものです。2020年まで7年、オリンピックという目標をおいて現政権の成長戦略を軌道にのせ国内の雰囲気を変える。そして失われた20年のマイナスを取り戻し世界に誇れる国づくりに取り掛かりたいものです。

宮内義彦(みやうち・よしひこ)1935年神戸市生まれ。米国に渡って学んだリースを手始めに、不動産、生命保険、銀行などと事業領域を広げてきた金融サービス界の重鎮。最高経営責任者の在任期間は30年を超え、企業経営に関する著書も複数ある。語り口はソフトながら、世の中の動きを分析する視点は鋭く、時に厳しい。マクロ経済についての関心も高く、規制改革にも長く取り組む。野球好きで知られ、球団オーナーの顔も持つ。

宮内義彦(29)これから

次の世代にバトン託す
東京五輪、元気に迎えたい

規制改革の話になると熱くなってしまうが、普段は静かに読書をし、クラシック音楽を聴くのが好きだ。

いま新日本フィルハーモニー交響楽団の理事長を務めている。小澤征爾さんが設立した由緒あるオーケストラだが、なかなか財政は厳しい。企業や個人の寄付による応援を期待するが、根付いているとはいえない。

もうひとつのテーマが教育だ。私学経営を考える21世紀大学経営協会の理事長を仰せつかった。グローバル競争力を高められるようガバナンス改革をうながすのがねらいだが、歩みは誠にのろい。

沖縄懇話会という本土と沖縄の経済界の連携役をダイキン工業の井上礼之会長とともに務めている。沖縄の発展のお役に立てればとの思いからだ。また、家の宗旨のかかわりで、西本願寺総代にも就任した。仏教を学ぶ機会をいただいたと思っている。

仕事人生を通じて知遇を得た人は数えきれない。経済人はもちろん、文化人や政治家、官僚を含めて勉強会と称して集まるのも度々だ。飲み会もあれば真面目な読書会もある。同年生まれの「初亥会」も楽しい。ロータリークラブも意味がある。スポーツのおかげで交流の幅はさらに広がった。ゴルフもテニスも楽しいが、野球好きは子供の頃から。社長になって何度か東西財界交歓野球大会に出してもらった。メンバーには甲子園や東京六大学で活躍した人が結構いた。「宮内さん、球歴は?」と聞かれて絶句したが、草野球です、と答えた。

来年はオリックスの設立50年。半世紀前、大阪の小さな雑居ビルに集まった13人の中で最年少だったにもかかわらず「俺の会社」だと意識していた。会社は自分のものだと思っているのではない。社会からの預かりものである会社を、おかしなことにさせてはならない。その一心だった。

経営者としての賞味期限はずいぶん前に切れている。もちろんオリックスと縁が切れることはないだろう。しかし、大切なのは元気なうちに次へバトンを託すこと。それを意識するにつけ「一歩後ろへ」という思いを強くする。

戦後68年、日本はすっかり変わった。今の豊かさは想像を超えたものだ。一番素晴らしかったのは戦火に巻き込まれなかったことだ。これからもぜひそうあってほしい。社会に共助の精神が芽生えている。悪いことではないのだろう。何よりも自分の足で立ち、困難に立ち向かい、そして自分の頭で考えることを忘れてほしくない。

この世に生を受けたとき、3世代7人家族の一番下だった。今は3世代10人家族の最年長。長女純子は松田浩治に嫁し、孫海渡。長男誠は環と結婚し、孫陽太郎、創太郎。そして次男修。長男、次男ともにサラリーマンをやめ、起業している。一線を退いたら少しはアドバイスをしてやれるかもしれない。

78年になる人生。そのうちの50年を超える同時代を生きたのは妻伸子ひとりだ。伴侶とはよくいったものだ。あともうしばらくなのだろうか、と考えていたが、次のよい目標が生まれた。東京オリンピックを元気に迎える。これだ。

この1カ月、私の話にお付き合いいただき、心からお礼を申し上げます。

(オリックス会長)

宮内義彦(28)かんぽの宿騒動

風評被害で会社傷つく
「出来レース」、臆測に過ぎず

オリックスが思いがけず話題にされることは、わたしが規制改革会議から身を引いた後も時折あった。その中で、今も得心できないのは「かんぽの宿」を巡る騒動だ。

2008年12月、日本郵政は年間数十億円の赤字漬けだったかんぽの宿の一括譲渡先にオリックス不動産を選んだ。それが発表されてしばらくすると、所管する総務相が待ったをかけたのだ。その理由が不可解きわまりない。「規制改革会議の議長だった宮内氏は郵政民営化を主導した。国民が出来レースと受け取る可能性がある」

到底納得できる物言いではないが、メディアはオリックスを悪者に仕立てたストーリーを流した。公共の施設を買いたたき、儲けようとしているのではないか、日本郵政の西川善文社長との間に「出来レース」を疑わせる何かがあるのではないか――。こんな具合だ。

わたしは小泉政権の郵政民営化を支持はしたが、当時の規制改革会議で取り扱うテーマではなかった。そもそもかんぽの宿は不動産だけの売買ではなく、宿泊事業の譲渡である。しかも厳正な入札の結果だ。落札価格は約109億円。社内では施設改修などにさらに250億円はかかると見積もっていた。600人を超える正社員も引きつぐ契約だ。黒字転換は簡単ではない。むしろ高値づかみしたのではないかとさえ思っていた。

西川さんとは気安く頼み事をする間柄でもなかった。関係を取り沙汰されたのは臆測以外の何ものでもない。

結局、この契約は解約となり実行されなかった。のちに日本郵政の第三者委員会は報告書をまとめ、落札価格の問題点を指摘しなかったが、あとの祭りだ。今考えると、この一件でオリックスが受けた傷は大きかった。まさに風評被害だ。

かんぽの宿はその後も毎年大きな赤字を続け、国の負担となっている。最近再び売却の話が出ているが、あの騒ぎは何だったのだろう。

思い起こすと規制改革の花盛りは90年代だ。金融ビッグバンを掲げた橋本龍太郎首相は、民の知恵、創意、工夫を活かすべく、先頭に立って動かしていた。わたしは改革が前へ進む様子を実感した。逆に小泉政権の時代は大きな壁に当たって話題には事欠かなかったが、実態はあまり前に進めなかった。特に医療や保育、教育、農業、雇用の分野では堅い制度の壁に阻まれ、既得権益の強さを改めて見せつけられた。

それでもこの岩盤のような規制をどう変えるべきか。反対の多い中で議論を煮詰めた。しかし残念なのは、その後今日に至るまでそのうちの1つでも2つでも前進できなかったことだ。

02年2月、規制改革会議の委員として活躍いただいた川口順子さんが外相に就任し、外務省を「変える会」を発足させ、その座長を仰せつかった。生田正治さんをはじめ委員の方々が熱意をもっていくつかの提案を出したが、果たして実効があったのか。変わることへの抵抗はここでも強かった。

「小泉政権のもとで規制改革会議は大活躍した」とは思い込みにすぎない。岩盤に遭遇し立ち往生したのだ。安倍政権は成長戦略の軸に規制改革を置いている。突き進むにはこの岩盤を崩していくしか道はない。ぜひ頑張ってほしい。

(オリックス会長)

楽天優勝の立役者は、42歳の元外資金融マン

チームを変えた、新社長の「巧みな戦略」と「熱き思い」

球界に参入した2005年、レギュラーシーズンを制したソフトバンクに51.5ゲーム差をつけられ“史上最弱”とも言われた楽天イーグルスが、今季、悲願のリーグ初優勝を果たした。過去にAクラス入りしたのは野村克也監督に率いられた2009年の1度のみだったチームが、なぜ、8年という短期間で栄冠を勝ち取ることができたのだろうか。

開幕22連勝を飾ったエースの田中将大、超大物メジャーリーガーとして鳴り物入りで来日したアンドリュー・ジョーンズ、若手の成長を見事に引き出した星野仙一監督がチームを牽引した“表の顔”とするなら、影で尽力したのが球団社長の立花陽三だ。

昨年8月、楽天グループの三木谷浩史会長に誘われ、メリルリンチ日本証券執行役員から転身。慶応大学を卒業して以来、ソロモン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチで輝かしいキャリアを歩んできた元外資系証券マンは、球界でも見事な手腕を発揮していく。

立花がまず行ったのは、チームを徹底的に分析することだった。成蹊高校時代にラグビーの高校日本代表、慶応大学でもスタンドオフとして活躍したが、野球に関しては素人だ。そこで求めたのが、誰もが納得できる数字的根拠だった。

「マネーボールではないが、数字的なアプローチのほうがわかりやすいし、ロジカルだと思う。他球団と比べてうちはどこが強いのか、弱いのか。それらを数字的に判断して、『じゃあ、ここを強くしよう』とアプローチした」

■なぜ右打者に補強を絞ったのか

立花は自身の球団社長としてのスタンスについて、「私の仕事のやり方は、他球団の社長とは明らかに違うと思う」と言う。たとえば前任者の島田亨は楽天グループ本隊の仕事もあり、仙台に来る日が限られていた。一般的な球団社長は、彼のように経営面に尽力し、グラウンドの話は編成担当や現場に任せることが多い。

一方、戦力強化も担う立花は仙台に常駐し、毎試合観戦してチームが勝利する方法を考え続けている。そうして昨季終盤、見えてきた課題が「右打者の長距離砲不在」だった。

「チームの投手力はそんなに悪くないが、得点数が低い。その課題を見つめ、『得点を取れる選手を取ってこよう』となった。ドラフトで新人を取っても、戦力になるまでに年数がかかる。われわれがオプションで持っているのは外国人を取ること。その中で必要なのは長打なのか、単打か。右打者なのか、左打者なのかと考えた」

2012年の楽天は、総失点がリーグで3番目に少ない467だったのに対し、総得点は4位の491。チーム本塁打はリーグ最少の52本だった。新シーズンに向け長打力アップが求められた中、なぜ右打者に補強ポイントを絞ったのだろうか。

「うちの主力には左打者が多いので、左打ちの外国人を加えると打線に左打者ばかりが並ぶ。左打者=左投手を打てないという因果関係は、いいバッターを見ているとあまり感じられないが、うちにはあまり打てない左打者もいる(苦笑)。そのバッターが左投手をぶつけられることが多くなって打てなくなると、チームの総力が低下する。それならば、右打者を取ったほうがいいとシンプルに考えた」

今季、楽天で大きく飛躍を遂げたのが銀次、枡田慎太郎の左打者だ。前者は主に3番、後者は6番を任されている。2人をつなぐ4、5番打者がジョーンズとケーシー・マギーの右打者だ。

実は昨季終了後、楽天がリストアップした外国人選手のトップ評価はある左打者だった。しかし、個の能力のみに目を向けるのではなく、「この選手がチームに最適なのか」「この外国人選手が打てなかったとしても、周りが打てばいい」と多角的な視点で議論し、右打者の補強という結論が出た。

そうして獲得に動いたのが、メジャーリーグで通算434本塁打、1998年から10年連続で外野手としてゴールドグラブ賞を獲得した実績のあるジョーンズだった。実力はもちろん、ジョーンズは楽天に必要な要素を備えている可能性があると立花は考えた。

「うちは若いチームだから、つねに試合に出る野手の中に本当のリーダーが必要。打つこと、いいプレーをすることはもちろん重要だけど、チームのコアになる人間がもっと重要になる」

2012年末、立花は米国に飛んだ。テネシー州ナッシュビルでウインターミーティング(メジャー関係者がトレードやFA〈フリーエージェント〉選手の交渉などを行う場)に参加していた担当スカウトと合流し、ジョーンズと直接交渉すべく、アトランタまで車を4時間走らせた。

夕刻、現地のレストランで席に着くや、立花はジョーンズに言った。

「私は元証券マンだ。君とディールをしに来た。わざわざお茶を飲みに来たわけではない」

前交渉で金銭面は双方の合意ラインにあったが、立花はジョーンズの熱意や人間性を直接確かめたかった。過去に来日した大物メジャーリーガーの中で、傲慢な態度が災いしてすぐに帰国した選手も少なくない。ジョーンズが上から目線なら、立花は断るつもりだった。

しかし、大柄なオランダ人は人格者だった。ひざを付き合わせて4時間、ブレーブス時代に10年連続で地区優勝した経験や野球への情熱を聞くにつれ、ジョーンズの自信みなぎる態度に立花は魅了されていく。

「正直、ジョーンズが打つか否かは、来日してみないとわからない。でも、あの自信がチームに必要だと思った」

社長自ら交渉に来たことに感激したジョーンズは、鳴り物入りで来日した。真摯な態度で日本球界に溶け込もうとし、前向きな姿勢で周囲の尊敬を勝ち得ていく。

■ジョーンズの同志にマギーを選んだ理由

ジョーンズがすぐにチームになじめた背景には、立花の打った手も関係している。彼とアトランタで入団交渉を行った際、「もうひとりの外国人選手は誰がいい?」と尋ねていたのだ。そうして獲得したのがマギーだった。楽天がリストアップしていたマギーはヤンキースでジョーンズとともにプレーし、「右の長距離砲」という補強ポイントにも合致していた。異国に来る外国人にとって、同じ言語で話せる友人の存在は心強い。立花は証券マン時代に米国勤務の経験があり、外国人の気持ちを理解していた。

マギーにとっても、ジョーンズは頼れる同志だ。2010年にメジャーで104打点を挙げたことのあるマギーは、ジョーンズの偉大さをよくわかっている。未知なる新天地で、尊敬できる選手と共にプレーできることは、マギーのモチベーションになった。2人はチームを牽引し、ジョーンズがリーグ4位タイの24本塁打を放てば、マギーは同3位の28本塁打、同2位の90打点と打線の核になっている(今季の成績は9月25日時点)。周囲は「チャンスで2人に回そう」と出塁し、得点パターンが構築されていった。

優勝を争う夏場、チーム全員で出掛けた食事の場でマギーが言った。

「俺は楽天でジョーンズと一緒にプレーできることを誇りに思う。ここまでいい成績を残せているのも、彼のいるおかげだ」

マギーだけではない。高卒8年目の今季、首位打者を争うまでになった銀次は、飛躍の理由をこう話している。

「ジョーンズと一緒にプレーして、自信になった部分があります。野球をよく知っているし、試合の流れをすごく知っている。技術、精神面でいろいろとアドバイスをくれますしね。今シーズン、一緒にプレーできたことはすごく大きいですよ」

打線に核ができ、それぞれの役割が明確になった。ジョーンズやマギーの堂々たる態度を見て、周囲は触発されたものがあったはずだ。大物メジャーリーガーの持つ自信がチームに伝播し、徐々に勝者のメンタリティが育まれていったのだろう。

優勝マジック3で西武ドームに乗り込んだ9月24日の試合前、2007年から10年まで楽天でプレーしていた渡辺直人(現・西武)は古巣の変化を感じていた。

「勝つことでチームは変わります。勝利することでチームワークや団結力が出てくる。若い選手は試合で使われ、レギュラーの自覚が芽生えてきたのでしょうね。僕がいた頃にレギュラーでなかった選手が、今季はたくさん出てきています」

■「成功できる」という自信

負けが込めば込むほど、人は自信を失いがちだ。立花はそんなチームを一気に変えるべく、ジョーンズとマギーを米国から連れてきた。そして彼らが最大限に力を発揮できるよう、裏で環境を整えた。

マギーが言う。

「ヨウゾウは英語がとてもうまく、よくコミュニケーションを取っているよ。ラグビーやビジネスで成し遂げてきた話を聞いたが、彼は戦略性を持って動ける人だと感じている。当然、球団の経営をうまく行おうとしているが、いちばん考えているのは、チームをどうやって勝たせようかということがよく伝わってくる」

楽天で1年間戦い、マギーは周囲の変化を感じている。

「チームには、成功できるという自信が増している。それが日々の勝利につながっていると思う。イーグルスはここまですばらしい戦いをしてきたが、われわれにはポストシーズンがあるし、勝ち続けなければならない。イーグルスがなすべきことは、まだ始まったばかりだ。チームと共にこういう状況にいられて、本当に幸せだよ」

■優勝に続く、もうひとつの使命

強力な“助っ人”外国人が起爆剤となり、初優勝を飾った楽天イーグルス。実は、選手への総年俸は今季、昨季ともに約23億円で変わっていない。推定年俸でジョーンズに3億円、マギーに1億円+出来高の契約を結んでいるものの、活躍していなかった5人の外国人選手と昨季限りで契約を打ち切り、戦力として見込める有力選手にしかるべき報酬を払うように変えたのだ。今季のチーム総年俸は広島、DeNAに次いで少ないが、的確に補強すれば十分に戦えることを示している。

昨年8月に立花が就任したとき、求められた使命は優勝と球団経営の黒字化だった。前者は達成した一方、後者はまさに取り組んでいる最中だ。昨年はスポンサーが15社増え、観客動員数が1万7000人以上増加したにもかかわらず、約9億5000万円の営業損失を計上した。球場改修に伴う減価償却費=約9億円が大きく響いた格好だ。

今季はチームの好調が最大の要因となり、観客動員数は昨季比で1試合平均7%アップしている。チケットが完売した試合は昨季の5度から、今季は8月までに9度を数えた。勝つことでチームを魅力的にし、ファンを引き付けようというのが立花の描く黒字化への道筋だ。
「『優勝できるようにチームが強くなる』=『ファンが増え、球団の収入がアップする』のスピード感が一緒でなければ、経営的にうまくいかない。そうしたプロスポーツの永遠の課題を、乗り越えていかなければならない」

リーグ初優勝を決める1カ月前、社員たちから就任1周年記念でプレゼントされたエンジ色のネクタイを締めた立花は、クリネックススタジアム宮城でこんな話をしていた。

「自分は今までの土台にトッピングしているだけ。私がやったのは1〜2%。5年後に私の真価が問われる。まだ始まったばかりだと思う」

2013年の秋、現場の選手や監督、コーチ、裏方と勝利の美酒を味わった立花は、すでにもうひとつの使命達成に目を向けている。

—-
立花陽三(たちばな・ようぞう)
楽天イーグルス社長 1971年東京生まれ。1990年、慶応大学総合政策学部に入学し、ラグビー部で活躍。卒業後、ソロモンブラーズ証券に入社。ゴールドマン・サックス証券を経て、メリルリンチ日本証券にて、債券営業統括本部長として活躍、11年に常務執行役員に就任。12年8月より現職
中島大輔:スポーツライター

東洋経済新報社

宮内義彦(27)村上ファンド

設立を支援、思わぬ結末
規制改革の火、何とかつなぐ

人材派遣会社のザ・アール社長の奥谷禮子さんは、規制改革会議で一緒にがんばってくれた一人だ。1998年末、骨のある若手官僚を紹介するわ、と言われて一緒に食事をした。40歳少し前にみえたその通産官僚は、経営者にもっと規律を持たせれば日本型資本主義はまともになると熱弁をふるった。そのとおり。でも一人で叫んでいても実現は難しいのでは。そんな受け答えをした。

しばらくして彼ひとりで訪ねてきた。「役所を辞めました。手伝っていただけないでしょうか」。物言う株主として名を馳せる村上世彰氏との出会いだ。彼はファンドの設立を計画していた。

彼の理想を応援できればと思った。オリックスグループの休眠会社を使って運用会社の立ち上げを手伝い、役員を送ったが、もちろんファンド運用には全く関わることはなかった。ファンドへの投資も少額にとどめた。全面支援しなかったのは、彼自身が努力すべきだと思ったからだ。村上氏は経済人や官僚OB、友人を駆けまわり、彼に共鳴した多くの人が資金を出して応援した。

村上氏は時折、自分の考えなどを説明しに来た。しかし彼のメディアへの登場が増えるにつれ、オリックスへの足は遠のいていった。

2006年、彼のインサイダー取引容疑が報じられると、事件とは関わりのないファンド自体に投資した企業や個人が批判の渦に巻き込まれた。オリックスもその渦中にあった。村上ファンドを応援したことと、規制改革への逆風がごちゃ混ぜになり、何か怪しげだという空気が生まれてしまった。衆院ではわたしを参考人招致しようとの動きもあったが、結局立ち消えになった。誰がどんな思惑でどう動いたか。今でも皆目わからない。

村上ファンドをどう総括するか。当初はとてもこんな結末になるとは思わなかった。彼がもっとじっくりと事を進めていれば、企業社会に好影響を及ぼす存在になっていたかもしれない。しかし結果は新しい動きを否定する象徴となってしまった。

規制改革への逆風はこの頃が頂点だった。その秋、小泉純一郎首相の退任を前にして、委員を総入れ替えすべきだという声が与党内に台頭した。全員が辞めることになったら規制改革の火はどうなるのか。何とかしなければと焦るなか、相談にのってくださったのが、竹中平蔵総務相だ。「来年の任期を待たずに電撃辞任して、議長を草刈さんに譲ってはいかがですか」

10月、この策は功を奏し、全委員がクビになる事態は避けられた。同時にわたしの長い規制改革との関わりも終わった。日本郵船会長の草刈隆郎さんは第1次安倍、福田、麻生政権と民主党政権でわたしにも増して苦労された。申し訳ない気持ちだ。

わたしは規制改革に私心なく真面目に取り組んだ自負がある。改革に反対する人たちがなぜあんなに勝手な主張をするのか、今も理解できない。「そんな勝手なことをよく言えますね」という言葉が喉まで出かかったことも一度や二度ではない。

ある日、農協改革について埒があかず、農林水産省に出向いて幹部と直談判した。やりとりは忘れたが、地下食堂で食べたカレーライスの味は、何となく覚えている。

(オリックス会長)

宮内義彦(26)抵抗勢力

議長降ろし画策次々
オリックス批判、耐え難く

1990年代から20年近くもたずさわった規制改革に、愉快な思い出はあまりない。

規制改革は経済活動の効率を上げ、豊かな富を社会に提供するのが目的だ。効率を阻害する要因を取り上げ、それが社会的に意味を持つかどうかを議論し、折り合いをつけて社会全体にプラスになるように動かすことにある。しかし岩盤といわれるところにぶち当たると、政争の餌食になり始める。規制改革会議の議長からわたしを降ろそうとする画策がうごめきだした。

「次期規制改革会議の体制について(案)」と題するA4判の2枚紙が出回っていると報じられた。「05年夏に日本郵船の草刈隆郎会長を議長とし、宮内氏は退任する」「改革担当相が宮内、草刈両氏と経団連会長との夕食の機会をもうけて確認するのも一案」などと書いてある。日付は2004年2月20日。詠み人知らずの怪文書だ。

04年に会議に加わった草刈さんは総括主査として改革を支えてくれた同志。小泉政権後に議長に就き、とても苦労されることになるが、任期途中での議長交代などお互いに寝耳に水。岩盤を砕くのに夢中だったわたしは、知らぬ間に岩盤から突きおとされそうになっていた。

怪文書は一例にすぎない。担当相が「宮内さんは辞めるハラを固めたようです」と小泉首相に囁いたり、逆に改革派への抗議のため「一緒に辞めましょう」と言われたり。背後に抵抗勢力の動きがあったのだろう。政治家のあの手この手は驚きの連続だった。

議長降ろしを画策し、会議の力を削ごうとする動きが増えたのは、改革が前進することへの危機感の表れだ。小泉首相は妙な話に取り合わなかったし、竹中平蔵経済財政相からは的確な助言をいただいた。委員の多くは献身的に働いてくれた。長く議長代理を務めた鈴木良男さんはあらゆる分野で的を射た提案をしてくださった。学識者は八代尚宏、八田達夫、福井秀夫の各先生をはじめ強力な布陣。川口順子さんも終始一貫して改革を支えてくれた。

会議が改革にのめり込むほどに抵抗は激しくなった。わたし個人にとどまらず、オリックスを悪者にする空気を蔓延させようとする圧力団体も台頭した。例えば混合診療を解禁すれば民間保険の商機が広がるので、宮内はオリックスの関連保険会社のために主張しているとの声まで出た。

04年秋に「みんなのためという混合診療解禁は、実は一部の人だけにうれしい改革かもしれない」という内容の意見広告が全国紙に載った。広告主はある地方の医師会。もし保険事業を伸ばしたければ議長など辞めて社業に専念していただろう。

わたしは自社の事業を前提に規制問題を考えたことは一度もない。規制改革の意義は特別な収益を全ての人に開放することで、その結果、ある人が得するなどあり得ない。分野ごとに担当の委員が当局や業界と接触し、議論を重ねて合意を取っていく。議長が恣意的に何かをする余地はない。やろうとしたら、あれだけ見識ある委員が長年わたしを支えてくれるはずがない。

強い抵抗にさらされ、思い出したようにオリックス批判が頭をもたげた。オリックスの顧客の中には規制改革に反対の人もいた。そして取引を失ったという社内報告もいくたびかあり、複雑な思いをした。

(オリックス会長)

宮内義彦(25)遅々として

改革前進、実感できず
小泉首相、力強くサポート

規制改革を推し進める政府の組織は苦い経験を経て、民間出身者のみの構成となった。これで規制を変えていく方向性は生まれたが、それを実現するため、委員が自ら相手官庁と折衝するという大きな負担を背負うことになる。

組織の運営は政府の事務局が担うが、中身や結論は委員の侃々諤々が大きな意味を持つようになる。これがほかの政府審議会にない特徴で、その伝統は今の規制改革会議も受け継いでいるはずだ。

成果を上げ始めたのは1990年代半ば。95年4月、行政改革委員会に規制緩和小委員会が発足し、座長に日本IBM会長の椎名武雄さんが就いた。小委員会は論点を矢継ぎ早に公表し、規制緩和を推進する意見をまとめあげ、村山富市首相に改革を迫った。

翌96年3月、橋本龍太郎首相の主導で改訂版の規制緩和推進計画を閣議決定し、11分野の1797項目にわたる改革を実行することになった。あらゆる項目を俎上に載せた座長・椎名さんへの反発は大きかった。規制に守られた業界や、業界を応援する国会議員の攻撃に椎名さんは体調を崩し、座長を退くことになる。委員だったわたしは、4月にその後任を仰せつかった。その後、約11年間、委員長、議長などとしてこのテーマに関わり続けることになる。

わたしたちが当初取り組んだのは民間経済活動への規制だった。業法で守られた参入規制、許認可、価格統制など時代とともになくすべきものがほとんどだった。撤廃・緩和は毎年着実に進んでいった。

この時期に実現させた規制緩和の数々は、当時、規制するのがふつうだと考えられていた。携帯電話の利用者が電話機をレンタルでしか使えなかったのを自由に買えるようにする「売り切り制」の導入、大都市圏の都心部などの容積率緩和や金融機関による金融市場からの資金調達の手段多様化――などだ。

99年4月、小渕政権は規制政策の主眼について緩和から改革へと舵を切った。撤廃・緩和だけではなく、独占禁止法を強化したり、企業情報の開示を促したり。経済活性化の基盤となる公正な市場作りの重要性を同時に意識するようになったからだ。

わたしは中央省庁の再編とほぼ同時に発足した総合規制改革会議の議長に任じられた。小泉純一郎首相が登場したのはその直後だ。構造改革を旗印に掲げた小泉さんは、どの首相よりも強力に改革を支えようとしていた。この時期には医療や教育など制度化しているシステムや公共サービスといった社会的規制がテーマになっていた。規制の岩盤にぶち当たったのだ。

社会的規制は経済的規制とちがい、人びとのくらしを守るために存在する。だから経済原理を優先させてゆるめるのはまかりならん。改革に抵抗する人びとは猛烈な反対運動を展開した。本当にそうだろうか。ほんの一例だが、医療の分野では保険外の薬や治療法を用いた途端、保険部分も自己負担となる。そのため画期的な新薬や治療法を諦めざるを得ない患者がいるのを見過ごすことはできない。

岩盤のような規制に守られ既得権益を手放さない人たちがいるのが問題の本質ではないか。記者会見で改革の進み具合を尋ねられたわたしは「遅々として進んでいる」と答えたが、進んだ実感はなかった。

(オリックス会長)

宮内義彦(24)規制改革

官僚OBの反発激しく
成果出せず仕切り直しに

経済同友会での提言活動はやがて時の政権のもとで政策づくりに携わるきっかけを与えてくれるようになった。

印象深いのは1993年から94年にかけて委員長をつとめた同友会の「現代日本社会を考える委員会」の提言で初めて司法を取り上げ、その後の司法制度改革に直結したことだ。

社会に数多ある紛争や揉めごとのうち、司法が解決するのはわずか2割程度にすぎないといわれる。あとは被害者が泣き寝入りしたり行政に駆け込んだり、はたまた闇の世界の人脈にたよったり。二割司法と揶揄される法曹界の機能を回復させ、社会から頼られるものにしたい。議論を闘わせる日々に意義を感じた。

法科大学院(ロースクール)の創設や司法試験の合格者3千人の必要性など、今世紀になって実現にこぎ着けた改革の多くは、この委員会の提言が火付け役だ。ところがいま、巻き返しに遭って司法改革は逆回転し始めている。当初の認識に立ち返り、いま一度検討してほしいテーマだ。

オリックスの経営を別にすれば、規制改革への取り組みは思いがけず長くなり、ライフワークのようになった。日本が構造改革や規制改革に取り組んだ歴史は決して先進国の潮流に遅れたものではなかった。3公社の民営化などは早い時期に実施された。問題は経済の好調もあって80年代にこれで良いのだという風潮に流され、停滞してしまったことだ。

1990年、海部政権は臨時行政改革推進審議会を発足させた。会長は鈴木永二日経連会長。いわゆる第三次行革審だ。翌年2月、そのもとに「豊かなくらし部会」が発足し、委員を仰せつかった。規制改革への最初の関わりだ。

部会長はその2年半後に首相になる細川護熙さん。細川さんは熊本県知事のとき、バス停を10メートル動かすのに霞が関の官僚のハンコがいることに驚いた原体験を持つ、生粋の規制緩和論者だった。日本をもっと自由に、という大志をいだいていた。だが、ことはそう簡単ではなかった。

部会の委員の半数は経済界、学者、マスコミなどから出た民間人。のこり半数はほとんどが霞が関の出身者。各省の次官経験者などだ。航空業界などの参入規制をゆるめたり、酒類の製造・販売を自由化したりする必要性を民間委員が指摘すると、必ずといっていいほど「しかしながら」という反論が出て収拾がつかなくなる。

航空なら運輸省OB、酒類免許なら大蔵省OB。彼らが規制の依ってたつ理由をとうとうと述べる。もちろん規制する理由はあっただろうが、それに今どれだけの意味があるのかが問題なのだ。結局、報告書は両論併記となってしまう。そうなると何の変革も行われない。委員のひとりとしてむなしさと怒りを感じていた。

真っ先に嫌気が差したのが他ならぬ細川さんだ。宮沢政権の92年5月、部会長を辞任する事件が起こった。この部会は何の成果も上げられず終わってしまった。

もっとも、この経験は規制改革にとって無駄ではなかった。細川政権のもとで仕切り直しになった規制改革の推進組織は、委員から官僚出身者を外し、毎年答申を内閣が受け取り閣議決定するという、その後の規制改革の推進プロセスを作り上げたからだ。

(オリックス会長)

宮内義彦(23)経済同友会

政策に提言、やりがい
多くの論客と討議、勉強に

オリックスは金融から離れた事業にも一歩踏み込んだ。この事業には特定の分野に打ち込み専門性も高いプロを育てなければ成功しない。例えば旅館、ゴルフ場、コンサート、水族館のプロだ。いま社内には環境、新エネルギー、廃棄物などの分野でもプロを必要としている。今のところグループのごく一部にしかすぎないが、いつの日か大きく花開いてほしい。いずれにせよ決め手は専門性と実行力だ。

直近の新しい動きはオランダの資産運用会社ロベコ社を約2500億円で買収したことだ。金額はこれまでのM&Aで最大。重要なのは同じ金融分野とはいえ、手数料収入で利益を得ることである。新たな挑戦が始まる。

これまでオリックスはビジネスモデルを変えながら成長してきた。それもあって創業直後の第1期を除き黒字経営を続けてきた。これからはもっとスピードを上げ、世界の流れに遅れてはならない。要は柔軟に変われる体質を維持することだ。

オリックスの成長に没頭していた身にとって、50歳になった1985年はひとつの転機だった。乾恒雄会長に経済同友会への入会を勧められたのだ。それまでは金融業の経営者の目でしか、世の中を見ていなかった。わたしの視界をぐんと広げてくれたのが、同友会で出会った経済人たちだ。

入会したときの代表幹事は石原俊日産自動車会長。次は速水優日商岩井会長。この時期はたくさんのことを学ばせていただいた。その次の代表幹事、牛尾治朗ウシオ電機会長が提唱された「市場主義宣言」には強く共鳴した。

わたしは94年度に副代表幹事に就任し、10年にわたってその職にあった。国のかたちや政策の勉強をかさねて提言すると、その内容が政策当局に直接届くような影響力があったし、多くの論客と知り合うことができた。永野健、品川正治、今井敬、椎名武雄、諸井虔、小林陽太郎、茂木友三郎さんらとの討議はどれだけわたしにとって勉強になったか、はかり知れない。

コメ政策のあり方について報告書が出ると、農相が記者会見で「待った」をかけようとする。教育改革を提言したときには同友会に文相が乗り込んできたこともあった。そうか、経済界の存在意義はこうしたところにあったのか。公に役立つことは誰であれ務めるのは当然だ。しかしそれにはしっかり勉強し、自らの考えを持たねばならない。

印象深いのは副代表幹事だった中村金夫日本興業銀行元会長の音頭で始めたコーポレート・ガバナンスの勉強会だ。じっくり討論するために浦安のホテルで合宿し、企業統治について真剣に議論した。この活動はわたしが会長をつとめている日本取締役協会に引きつがれた。社外取締役の意義を広めるのが使命だが、その歩みは遅々としており、世界の趨勢より一周遅れになってしまっている。

いつの間にか多くの時間を社外活動で費やすようになった。それは自己研鑽の場であるか、公共性のあるお役目の場であるか。意味のある時間だが、といって直接社業とはかかわりがない。バランスをどうとるか。牛尾さんに聞いたら「極意はフィフティー・フィフティーだよ」。その教えはいまも守っている。

(オリックス会長)

宮内義彦(22)リーマン危機

後継選びさなかの激震
不動産の危うさ教訓に

2000年4月、20年つづけた社長業を藤木保彦常務にゆずり、わたしは会長兼CEO(最高経営責任者)に就いた。藤木君は54歳。沈着で冷静な人柄だ。わたしが64歳のときだ。

オリックスは1990年代に事業の多角化を加速させ、伝統的な金融分野にも進出した。ほとんどがM&A(合併・買収)によるものだ。91年にアメリカのユナイテッド・オブ・オマハ生命保険会社が日本から撤退するというので、オリックス生命保険として再スタートさせた。茜証券は95年にオリックス証券(その後マネックス証券と合併)に衣替えさせた。98年、山一信託銀行を買収してオリックス信託銀行(今のオリックス銀行)を設立した。

資産運用業務をのぞけば、オリックスは総合金融業として地歩をかためた。これだけ会社が成長してくると、ひとりではとても支えきれない。宮内―藤木体制の確立によって新たな一歩を踏みだした。藤木君は懸命にわたしの見切れないところを補ってくれた。わたしは彼の成長を期待していた。

ところが07年の暮れに「あなたのあとはやれそうにない。ここで身を引きたい」と、藤木君に打ち明けられた。彼の決心は固い。08年1月、梁瀬行雄副社長に社長になってもらい、2人で次の社長候補を早急に見いだすことにした。梁瀬さんはあさひ銀行頭取を務めたバンカーだ。

藤木君へのバトンタッチで第4コーナーを回ったと自覚していたわたしは、身を引く機会を再考せざるを得なくなった。もともと70歳を過ぎてトップの座に居続ける自分を想像していなかった。そんなとき、激震に襲われた。リーマン・ショックである。

アメリカの不動産バブルが燃えさかっているのはわかっていたが、低所得層への住宅融資「サブプライムローン」の焦げ付き問題は、対岸の火事だと当初は思っていた。08年9月、リーマン・ブラザーズ証券の経営破綻が日本経済におよぼす影響を、蚊に刺された程度だと経済財政相が語っていた。

実際には全くそうではなかった。グローバル資本市場に伝播した信用収縮の嵐は、リスク回避の連鎖を呼び、オリックスの営業利益をまたたく間に十分の一に押し下げ、09年3月期は大幅な減益決算となった。

急転直下、梁瀬社長と守備固めの陣頭に立った。株価急落の影響も大きかったが、痛かったのは不動産市況の悪化だ。不良債権を抱えた客先が次々に潰れてゆく。その償却が利益を一気に縮ませる。今なおこの悪夢から完全に立ち直ったとは言い難い。

金融市場という舞台は底が抜けるのだ。一企業の立場ではいかんともし難い。これがリーマン危機から得た教訓だ。オリックスはこれを機に、これまで続けてきた貸付業務をさらに伸ばして成長し続けるのは難しいと考えた。新たに開拓すべき分野として(1)顧客サービスの付加価値を高める(2)投資業務の専門性を高める、の2つに照準を定めることにした。

リーマン危機が収束してきた11年1月、井上亮君が新たに社長に就任した。実務肌で行動力のあるリーダーだ。最近は全社に目配りをしてくれている。海外での豊富な経験を生かしながら、日本的な心遣いも加われば申し分ない。

(オリックス会長)