米ヨシダグループ会長吉田潤喜さん 母の愛をソースに込めて(5)

■経営危機の重圧で自らの命を絶とうとしたこともある。その時に救いの手を差し伸べてくれたのが妻、リンダの父だった。

金策がうまくいかずボーっとするばかり。それを紛らすために酒を浴びるように飲み、妻、リンダに八つ当たりしたこともありました。酔いがさめて現実に戻り、「俺は米国に何しに来たんや」と自問を繰り返しても全くいいアイデアが思い浮かびません。「こうすれば楽になるかも」と、ピストルを自分のこめかみにあてたこともありました。リンダが「この家を売りに出し、安いアパートを借りて出直しましょう」と言って励ましてくれたその晩、義父のブーマーに「一体、どうなっているのだ」と呼び出されたのです。

どん底の表情で彼の家に入ると、「Sitdown(座りなさい)」「Myson,pickitup(私の息子よ、それを取りなさい)」。初めて息子と呼んでくれたのを覚えています。テーブルの上にある紙切れを見ると16万ドルと記された小切手でした。それは義父が長年勤めていた航空会社の大切な退職金でした。このお金で事業を立て直すきっかけをつかみ、再スタートできました。

「コンチクショー、負けてたまるか」。私の原点がよみがえり、がむしゃらに働きました。借りた16万ドルは返さなくてはいけないのは当然です。でも返すことばかりを考えると気がめいりますがな。そこは発想の転換です。「ソースを一本でも多く売ろう」と攻めの気持ちに変えました。

こんなこともありましたね。新製品としてパイナップルを原材料とした甘いチャイニーズソースを作ったところ、売れ行きが悪く在庫の山を築いてしまったのです。タイからパイナップルがどんどんやって来ます。そこでネーミングを変えてソースを売ることを思い付きました。「ハワイアン・バーベキューソース」です。

ワシントン州やオレゴン州の人たちはバカンスでハワイによく行きます。ハワイにパイナップルの原料を使ったソースがあるかどうか知りませんでしたが、トマトを多く使いソースを赤めに仕上げました。パッケージはトロピカルなデザインに変えて売り出したらこれが大当たりです。

■起伏の多い人生を歩んできたのは間違いない。

いろんな人に助けられてここまでやってこられたのは確かです。その筆頭は母でしょう。母の秘伝のソースがなければ米国での成功はなかったですよ。失明の原因を作ってしまった姉にも感謝しています。失明していなかったら「コンチクショー」精神は自分には宿ることはなく、米国には行かなかったでしょう。姉は長く自責の念にさいなまれていましたが、私は一度も姉を恨んだことはありません。大好きな姉であり家族ですから。

節目節目では恩人が現れました。強制送還寸前のところを助けてくれた移民局のマリアンヌ、娘の多額の治療費を免除してくれた救急病院の皆さん、妻との出会いはもとより、義父の存在があってこそ立ち直ることができた。人の出会いは、その人の後ろに誰がいるのかわからないところがおもしろいですね。人との出会いを「人もうけ」と呼んでいます。

私もちゃんと恩返しをしないといけないと思い、慈善活動などもさせていただいています。自宅敷地もいつかは地域の募金活動に使ってもらえるようにしてあります。

また、自分の歩みを日本の皆さん、とくに子どもたちやこれから起業しようとする若者に知ってほしいので、来日の折にはいろいろなところでお話をさせていただいています。今の日本に必要なのはパッション(情熱)ですよ。私の場合、差別などの悔しさを前向きなポジティブエネルギーに変えてきました。敗者というのはやめた時に敗者になるわけで、走っている間は敗者にはなりません。

もし、目の前にある扉がピシャリと閉まってしまったなら、その扉の前でぼうぜんと立ちすくむのではなく、周りを見て別の扉を探すことです。99%のパッションでは残り1%に不純物が入り、諦めの余地が残ってしまいます。いつまでも100%の情熱で夢を追いかけていけば成功します。

米ヨシダグループ会長吉田潤喜さん 母の愛をソースに込めて(4)

■生後間もない長女の病状は病院の献身的な治療で回復した。退院時の入院費や治療費が気になった。

保険にも入っておらず、正直言って多額の治療費を請求されたらどうやって工面すべきか悩んでいました。ところがです。請求書に書かれていた金額は250ドルでした。「そんなはずはないやろ。何が何でも安すぎる」と病院の窓口に恐る恐る聞いてみました。

「娘さんの治療費は地域の人たちからの寄付金で賄います。お金のない人たちのために病院の理事会は日ごろから一生懸命、寄付を集めているのですよ」と言うではないですか。大変驚くと同時に「米国で成功して絶対に恩返しをする」と誓ったのを覚えています。

■景気の冷え込みで空手道場の生徒数の激減に見舞われ窮地に立つ。その時に思い付いたことがソース事業の起業につながる。

ワシントン州とオレゴン州の日本空手道連盟の主席師範に任命されてしばらくすると、米国北西部地区の警察官を対象に空手を使った逮捕術の指導をすることになりました。ゴンタクレ(暴れん坊)の京都の時代は警察に追われていたのに、立場が逆転して警察官をドツいてお金がもらえるなんて面白いですよね。

三女も生まれ、幸せな家庭生活がようやく送れるようになってきた直後、1980年代初めのカーター政権末期の景気後退で道場の生徒が3分の1に激減し、再び生活が苦しくなったのです。81年のクリスマスでは生徒からプレゼントをもらったもののお返しができないくらいお金に困っていました。

そこで閃いたのが私の母親直伝のソースを作ってお返しすることです。子どもの頃、京都で営んでいた焼肉店のタレがヒントになりました。しょうゆ、みりん、砂糖などを8時間じっくり煮込んでトロッとしたソースのできあがりです。瓶詰めして妻のリンダがそれにリボンを結んで生徒たちへのプレゼントにしました。

ソースは生徒やその家族に大評判で「まだあるならもう1本下さい」とか、「お金を払うから」という人も出てきました。「これは商売になるかもしれん」と考えて起業を決意し、道場の地下室に簡単なソース工場を設けました。

■スーパーの店頭に「ヨシダソース」を置いてもらおうと奔走するが現実は厳しかった。

広告宣伝費などありません。スーパーの仕入れ担当者と交渉すると「宣伝していないなら扱わない。ここに何をしに来たのか」と相手にしてくれません。一度でも口にしてもらえたらおいしさが分かってもらえる自信はあり、そこで実演販売を思い付きました。

京都の商店街で見ていましたので要領は心得ています。「パパさん、ママさん、カモンベイビー。チキンとポークによく合うよ」。口上だけでなく、もっと目立つように着流しにテンガロンハット、そして下駄という奇想天外な衣装で店頭に立ちました。

大手スーパーにもようやく置いてもらえたのですが店の片隅にある「オリエンタル(東洋)フード」の棚でした。「これはアカン」と思いました。他のスーパーも大手に倣って同様な売り場に並べられてしまうと米国人に手にとってもらえません。担当者に「普通のソース売り場に置いてほしい」と頼みましたが「実績がない」の一点張り。こっちが目指したのは著名メーカー「ハインツ」の隣です。

一計を案じ、この大手スーパーの二十数店舗に家族だけではなく従業員も繰り出して実演販売を一斉に展開する作戦に打って出たのです。販売実績は上々でした。大手スーパーの本部ではその好調な売り上げを見て、ソース売り場に並べてもらえるようになりました。最初は私を邪険にしていた仕入れ担当者は今度は逆にチラシでヨシダソースを紹介してくれるようになりました。後になって担当者は「おまえのような奴は初めてだ」と褒めてくれました。うれしかったですよ本当に。何事も信念を貫いていくとちゃんと評価してくれるのが米国ですね。

業容拡大のために84年に工場を新設しましたがこれが裏目に出ました。投資負担が重く、経営が急速に悪化したのです。破綻を覚悟しました。

(聞き手は編集委員田中陽)

米ヨシダグループ会長吉田潤喜さん 母の愛をソースに込めて(3)

■米国の生活はほぼ無一文からのスタートだった。

シアトルに向かう機内ではずっと毛布を頭からかぶって寝たふりです。だって、米国人の客室乗務員から分からん英語で話しかけられて、怖くてとにかく構わないでほしかったのですよ。

シアトルの空港からダウンタウンにバスで行き、旅行会社を探して帰りの航空券を750ドルで売りました。当時航空券はどこでも現金に換えられたんですよ。これでもう日本には帰れません。

次に向かったのは中古車店。クライスラーのポンコツ車、「プリムス」を購入して車中生活の始まりです。運転免許を持っていない外国人によく車を売ってくれましたよね。いいかげんなのかおおらかなのかどちらですかね。

毎晩、海岸近くの公衆トイレ付近に車を止めて寝泊まりです。手洗いの水を拝借してシャワー代わり。真冬のシアトルは寒くて寒くて。「これも修行や!」と歯を食いしばって水をかぶってました。車中生活は1969年秋ごろまで半年以上も続いたでしょうか。

当時のシアトルはベトナム戦争の引き揚げ者が多くいて反戦運動が激しく、アジアに多い黄色人種に対して風当たりが極めて強かったです。それでも何とかありつけた職がガーデナー(芝刈り業)のアルバイトでした。月に50ドルを手にしたものの、30ドルが家賃で消えていきました。仕事は厳しく、空腹との闘いで、栄養失調で2度、病院に担ぎこまれ入院したほどです。移民局にも何度か通報され、不法入国として出国を言い渡されたこともありました。

■移民局の命令を無視し働き続けたが再びつかまる。

ガーデナーの仕事をやめ、次の仕事はレストランでした。食いっぱぐれはないですからね。しかし、その店にも移民局が踏み込んできました。それも裏口から。慌てて店の玄関から飛び出し、逃げ切れたと思った途端、表にも移民局の職員が。「もうアカン。日本に返されるわ」と力が抜けました。

連行され、移民局の施設に放り込まれて事情聴取を受けるのを待ったのです。その時、少し体の不自由なマリアンヌという女性職員が私に向かってこう呼びかけたのです。「ハーイ、ジーム」。確かに私は米国でジームと呼ばれていました。すると、いかつい看守が彼女に「なんだ、こいつを知っているのか」と聞き、彼女は「そうよ。私の友達よ」と言ってくれたのです。看守は「OH、GO」(オー、行け)と言って釈放です。

捕まる前に永住権が欲しくて移民局の窓口を何度も訪れた時に対応をした職員の一人でした。私のことを覚えていて助け舟を出してくれたのです、まさに恩人です。

もう移民局の手から逃げ切るのは難しいと観念し、英語を勉強して大学に通うことにしました。72年になんとか地元の大学ハイライン・コミュニティー・カレッジに潜り込みました。しかし、無一文では学費も出せません。すると大学側からこんな提案があったのです。「空手を教えたら授業料を免除する」。渡りに船です。ちょうどブルース・リーの映画が大ヒットしていた時期に重なり、入部希望者で膨れあがりました。

■大学で妻となるリンダに一目ぼれ。ゴールインは早かった。

「米国で絶対に金髪の女性と結婚するんや」と心に決めていましたが、その時がこんなに早くやってくるとはねえ。人生ってほんとにわからんもんでっせ。今でも笑顔のかわいい女性です。出会ってわずか2週間でプロポーズですよ。強引でしたね。彼女は私の熱意を受け止めてくれました。

結婚を許してもらうためにリンダの家に行き、挨拶です。男親はどこの世界でも娘の結婚にはいい顔をしませんよ。ところが私は初対面にもかかわらず、「DAD」と言ってしまったのです。日本からやって来た若造に「お父さん」呼ばわりされたからさらに険悪なムードに包まれました。そこをリンダがなんとか取りなしてくれて渋々、OK。結婚式は73年12月です。移民局の恩人、マリアンヌも招きました。

結婚するとすぐ子どもを授かり、長女は74年11月に誕生。ところが様子がおかしいのです。無気力状態でミルクもあまり口にしません。おかしいと思い救急病院に行くと、重い黄疸だとわかり、すぐ入院です。幸せな日々が暗転しました。

米ヨシダグループ会長吉田潤喜さん 母の愛をソースに込めて(2)

■右目を失明したことでいじめをうける。心がすさみ、相手を見返すために空手を習う。

白く濁った右目は誰が見ても変に映ります。そのことでいじめの対象になりました。我が家は在日コリアンだったのでさらに畳みかけるように辛辣な言葉や暴力を振るわれたこともありました。両親の祖国に行ったことはないですが自分のルーツや存在そのものを否定されたことに頭にきました。

子どもながらに、やられっ放しの人生をずっと送りたくないと思うのは当然です。「コンチクショー。今に見とれ!」。いじめと差別を受けたことをバネに生きていく決意をし、腕っ節を強くしようと中学生の時に空手の道場に通い始めました。護身術というよりも何かあったら相手をボコボコにするためのものでした。空手を習う前に柔道を習ったのですが自分にはどうもしっくりきませんでした。剣道も考えたのですがどこか行儀がよくてね。自分には合わないだろうと。当時の空手道場には不良もたくさんいましたよ。

空手を身につけるとすぐに地元のワルとして頭角を現し、喧嘩に明け暮れる日々を送り、ゴンタクレ(暴れん坊)として名を馳せていましたね。ワルのグループの番長です。リーダーシップはこの時に身につけたのでしょう。

その無鉄砲ぶりは半端ではありません。2005年に公開された青春映画「パッチギ!」(井筒和幸監督)の中で、日本と在日コリアンの高校生が繰り広げる喧嘩の模様はまさに50年近く前の自分に重なるものがありました。「もしかしてこの映画のモデルは自分とちゃうのか」と思ったくらいです。

■米国へのあこがれはテレビを通して芽生えた。

家で飲食店を営んでいたので白黒テレビが周りの家よりも早くありました。日本語に訳された米国のドラマや映画を見て、豊かな社会にあこがれをいだきましたよ。大きな車に大きな家。自分が住んでいる京都では見掛けたことのない風景です。

豊かさに次いで強さもテレビが教えてくれました。キューバ危機です。まだ中学生のころでしたので米国とキューバがどうして緊迫した関係になったのかは分からなかったのですが、当時の若いケネディ大統領の毅然とした態度がブラウン管を通して伝わってきました。「アメリカって本気で喧嘩しよる」とね。

それから2年後の東京五輪では金メダルを次々と獲得する米国チームの活躍に圧倒されました。「この強い国はなんや。やたら強い。ほんまこの国に行きたい」と正直、こう思いましたね。

いつもはむしゃくしゃした気持ちを喧嘩で晴らしていましたが、米国に行けば自分のようなゴンタクレでもちゃんと受け入れてくれるような気がしました。

■米国行きのきっかけは大学受験の失敗だった。

立命館大学に入ろうとしたのですが、英語の試験が全く分からず、落ちてしまいました。母は浪人してやり直しなさいと言ってくれましたが、それよりも「京都、日本にいたくない」という気持ちが強く、一刻も早く米国に行こうと心に決めました。1968年のことです。

とはいえ、先立つものがありません。すると母は近所の人たちから一人5万円を10人から集めてきたのです。いわゆる頼母子講ですね。母はこうした金策には人一倍長けていました。一方、父はといえば相変わらず浮世離れした人で、父に米国行きを告げるとこう言いました。

「そうか。君は米国に行くんか。がんばりなさい。君の人生は自分で切り開きなさい」。驚きましたね。自分の息子に対していつも「君」と呼ぶ父。「この人は(私の米国行きを)ほんまにちゃんと分かってくれているのか」と。こっちが心配になりましたよ。

東京までは新幹線を使わず、東海道線で向かいました。母は羽田空港まで付き添ってくれましたが、ずっと泣いていたのを覚えています。母には「もう日本には絶対に帰ってこない」と伝えていたからです。

日本を出発したのは69年1月24日、金曜日。近所から集めたお金で高価な航空券を買いました。手持ちは母が別のことに使おうと貯めていたお金と知人からの借金を合わせて500ドルです。シアトル行きノースウエスト008便に乗り込みました。

米ヨシダグループ会長吉田潤喜さん 母の愛をソースに込めて(1)

4歳で右目を失明。そのことをからかわれグレた。受験失敗を機に単身渡米。空手道場を開き生活の糧を得る。その道場の生徒にプレゼントした母親秘伝の自家製「ソース」が評判となり事業化を思いつく。テンガロンハットに着流しという独特ないでたちの実演販売が大人気となる。無一文からはい上がったヨシダグループ会長の吉田潤喜さん(63)を多くの人がアメリカンドリームの体現者、米国のソース王と呼ぶ。

ーーーー

最近は日本でも「ヨシダソース」などを扱う店舗も増えてきました。また日本に戻ると時折、テレビのコメンテーターとして引っ張り出され、本音トークを展開しているので少しは私のことを知ってくださる方もいらっしゃいます。

生まれは京都市南区で7人兄弟の末っ子です。いやー、貧しかったね。でも、周りもそうだったから気にしなかったですけど。でもその原因を作っていたのは父親だったのです。

浮世離れし、甲斐性のない人でした。写真館を営んでいたのですが、「人を撮るのがいや」と言って、山に籠もって自然の風景をレンズに収めていました。よく言えば芸術家肌ですけど。だから商売にならず3度も写真館を潰したほどです。

そのしわ寄せが母に重くのしかかかるのは当然です。写真館を立て直そうといろいろな人からお金を借りてきたのも母です。

母は朝早く列車に乗り、滋賀県大津あたりまで行き、闇市で売るための食材などを仕入れていました。家から京都駅までは歩いて5分ほどだったので夕方になると姉たちと駅まで迎えに行くのが楽しかったね。母は私たちを見つけると「ぼく、きてくれたか」と言って、ポケットからいつもあめ玉をくれました。

■祖父の代から続くクリスチャンの一家。母には信仰が唯一の生きがいになっていた。

父は「何かあったら神様が守ってくれる。食べ物も神様が与えてくれるんや」といつも言っていました。フラッと帰ってきて食べるものがないと「なんや。ないのか」と言ってまたどこかに行ってしまうのです。そんな父の振る舞いを見ていて「このおっさん、神様は誰やと思ってんのや。おかんやないか」と子どもながらに怒ってね。父を憎んだのも事実です。

母は泣き言の一つも言わず本当に黙々と働いていました。「母は苦労をするために生まれてきたのではないか」と思ったくらいです。その母も教会の祈りの時はいつも泣いていました。一番、自分の気持ちに正直になれたのでしょう。さらに信仰心があつくなっていったようです。

夕食時はいつも面白い光景だったことを覚えています。みんながちゃぶ台をとりかこみ、心を落ち着かせて「アーメン」と言い終えると箸を手に、少ないおかずの奪い合い。まさに戦争でっせ。

母は闇市に始まり裁縫の内職、靴店、喫茶店、ジャン荘など次々と商売を変えていったのです。そもそも素人で始めた仕事だからもうからないからやめたんだろうと勝手に思い、母にそう聞いてみると意外な答えが返ってきました。「あほ。もっともうかることがあったから商売を変えるんや。もっと、もうけようと思って前の商売をやめるんや」。驚いたのは言うまでもないです。

その中に焼肉店やお好み焼き屋もありました。母の手作りのみりんを使った甘いソースの味が後のアメリカで身を助けてくれたことになるのです。

■右目の光を失ったのは姉と遊んでいたときという。

実はあまり覚えてませんのや。夜、一番年の近い大好きな姉と2階の部屋で遊んでいたそうです。そこに母の内職用の裁縫箱があり、針を手にした姉といっしょに部屋を駆けずりまわっていたときに何かの拍子でその針が私の右の眼球のど真ん中に刺さったらしいです。ただただ痛くて泣き叫ぶだけ。病院で見てもらったところ「もう右目は見えない」と言われました。

この失明は私の人生にとって大きな影響を与えたことは間違いありません。