篠原欣子(29)生老病死

よりよい人生手助け
母逝き、介護・保育に夢託す

1993年10月5日、母タツが胃がんのため亡くなった。享年92。

1年前から自宅近くの病院に入院していた母を、毎週土曜日に見舞った。外の空気を吸わせたくて車いすで病院の庭に出たが、母はつらそうだった。それからずっとベッドに横たわっていた。

己拔(きばつ)兄から「おふくろが危ない」という電話をもらって、取るものも取りあえず駅に急いだ。車だと赤信号のたびに止まる。まっすぐ病院に行きたくて飛び乗った電車の中で、人目もはばからず子どものように泣き続けた。

会社を興したとき母がお金を貸してくれたおかげで資金繰りを乗り切れた。それからDMの宛名書きを手伝ってくれた。老いとともに書き間違いが増えて、たくさんのDMが戻ってくるようになったけれど私はうれしかった。母が大好きだった。

己拔兄夫婦、私、妹の敏子の4人が見守る中、母は苦しげな息をして眠っている。兄が「3人でお昼を済ましてこいよ」というので、出かけて戻ってくると、母は息を引き取っていた。まだ温かい亡きがらにすがって声をあげた。一緒に暮らそうとマンションの1室を買っていたのに、それもいまはむなしい。

葬儀を終えてから折に触れて病室の光景を思い出した。寝たきりの母をかいがいしく世話してくれる看護師やヘルパーさん。老人の介護や病人の看病は、心だけではなく技術の問題なのだと知った。

仏語で「生老病死」と言う。人間は生まれて死ぬまで様々な苦しみに出合う。その苦しみを少しでも和らげることができれば、どんなにいいだろう。助産師だった母もそのために生きた一人だ。

母が亡くなってから、在宅介護や企業向けに看護師を派遣する子会社を設立した。この会社はいま品川区で認知症のお年寄りのグループホームを運営している。4階建てビルの3、4階がお年寄りの住まいで1、2階が都の認可保育所になっている。

併設の保育園を運営しているのは社内ベンチャーから育った会社だ。2000年に募集を始めたら、若い男性社員が「保育の仕事をやりたい」と提案してきた。「命懸けでやれる?」という問いに「はい」と答えた彼は、首都圏に5つの直営保育園を持ち、保育士の派遣、学童クラブや児童館、地域交流施設の運営受託などを手掛ける会社に成長させた。

テンプグループは人材派遣業を幹としながら、様々な枝を広げている。私は人々が、中でも女性が「働く」ことを通じてよりよい人生を送れるようにと願ってきた。その願いをかなえるためのさまざまな事業も育った。

個人の資格で「篠原学園専門学校」を経営している。もとは神田神保町にある医療秘書養成のための専門学校だったが、私が経営を引き継いでから保育士養成コースを新設した。学校に顔を出し、若い人が勉強している姿を見るのが何よりの楽しみだ。

8歳で父を亡くし、母も逝った。姉の美多子もこの世にいない。幸い兄、私、妹は命永らえ、それぞれの日々を送っている。とはいえ私もこの10月で79歳になる。残された命には限りがあるが、これからも前だけを見ながら生きていこうと思う。

(テンプスタッフ創業者)

=おわり

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