篠原欣子(12)2年ぶり帰国

豪の調査会社へ転職
女性活用、日本と雲泥の差

ロンドンの下宿先では家事を手伝うと家主の女性がわずかな小遣いをくれた。そうして節約に節約を重ねてきたが、いよいよ日本から持ってきたお金がなくなった。戻りたくはなかったけれど、帰国のときが迫っていた。

1971年春、ロンドンから羽田に向かう飛行機に乗った。ヨーロッパにやってきたのは2年前。手に入れかけた家庭生活はするりと逃げ、ぽっかりと開いた穴を埋めたい一心で日本を後にした。そして脇目もふらずに英語の勉強をしてきたのだが、これでよかったのだろうか。

飛行機が羽田に着いた。出発のときは母が空港まで見送りに来てくれたのに、その日迎えはなかった。重いトランクを抱えて電車を乗り継ぎ、横浜の家に戻った。

まずは働き口を自力で探さなければならない。帰国後もラジオの英会話番組で勉強を続けながら職業安定所に通った。ほどなく英字紙の求人欄を通して、蒲田にあった「日本ワッカー」というドイツ系の土木建築用機械輸入会社に職を見つけた。

仕事はドイツ人社長の秘書だった。社長とは英語で話すものの、20人ほどの日本人社員とは日本語だ。やがて、せっかく身についた英語力がさび付くのではないかという不安が芽ばえた。

それに外国生活で英語以外に何を学んだのだろう。確かに毎日充実はしていた。しかし大事なものをつかみそこねたまま帰国してしまったような気がしてならなかった。

「何とかもう1度外国に出たい」。じりじりするような思いで、目を皿にして英字紙の求人欄を読んでいたら、豪州の市場調査会社「PRSA」が日本進出に備えて日本人秘書を募集している。一も二もなく応募した。

やがてシドニーのオフィスから日本に出張してきたPRSA社の幹部と面談した。採用通知が届き、日本ワッカーを退社することにして渡豪の準備を始めたのだが、どういうわけか労働ビザがなかなか下りない。10月の声を聞いてやっとのことでシドニーの土を踏むことができた。

シドニーのオフィスに行ってまず驚いたのは女性の管理職が何人もいて、一般の女性社員も責任ある役割を割り当てられていたことだ。男女とも自分の好きな服装で、てきぱきと仕事をしている。廊下に出てトイレに行こうとしたら、通りかかった社長がドアを開けてくれた。そして年齢や地位に関係なく誰もがファーストネームで呼び合う。

男女が分け隔てなく働くのは当時の欧米社会では当たり前だったろうが、私は目まいがするような衝撃を受けた。「女性がこうして働ける世界があったのか」という信じられない思いの一方で「日本ではなぜそうではないのか」という疑問が首をもたげた。

会社の給料は悪くなかった。留学時代のように節約しなくても足りたから、近くのキングス・クロスでショッピングをしたり、スーパーで買い物をしてアパートで料理をこしらえたりした。

そんなある日、出勤して自席に座ると、近くで見知らぬ女性が仕事をしている。「あの人は誰?」「テンプ・スタッフよ」。社員が休むと、その仕事を埋める人材を派遣してくれる会社があるという。

「テンポラリー・スタッフ(臨時社員)」という言葉が、ずしんと音を立てて私の中に落ちてきた。

(テンプスタッフ創業者)

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