篠原欣子(11)英国へ

ロンドンで英語に本腰
勉強漬け、にぎわいは無縁

チューリヒを留学先に選んだのは日本人の友人夫妻が住んでいるからだった。初めての外国で頼れる人がいないのは心細かったし、多言語国家のスイスのことだから、語学学校にさえ入れば英語を学ぶこともできるだろうと、根拠もなく思っていた。

しかしチューリヒはドイツ語圏にあって、私が入った語学学校は、仕事の必要からドイツ語を学ぼうという欧米人のためのものだった。ともかく毎日授業に出たが全然ついて行けない。教室で教師が私の顔をのぞき込み「大丈夫?」と聞いた。

そのうち友人が商社マンの夫の転勤に伴って、チューリヒを離れることになった。1人になるのは心細かったが、英語力が身につかないまま日本に帰ることはできない。そこで1969年8月、英国に行くことにした。

次の留学先はロンドンから南西に約170キロ離れたボーンマスという町。イギリス海峡を望む保養地で、英会話学校がいくつもある。下宿は石造りの3階建ての民家だった。1階のリビングを囲んで個室が3つか4つある。私はその1室をあてがわれた。

語学学校は下宿から歩いて15分ほどのところにあった。欧州やアフリカの各国から生徒が集まる初心者クラスで、母国語も様々だった。もちろん日本人は私だけ。

ある日、下宿の奥さんがフィッシュ・アンド・チップスをつくってくれた。衣をつけた白身の魚と刻んだジャガイモを揚げたもので、塩や酢をかけて食べる。英国の料理の評判は決していいとは言えない。でも食糧難の時代に育った私は、おなかがいっぱいになれば満足だった。

留学を思い立ったとき、華やかな外国生活を夢見ていたわけではない。しかし下宿と語学学校を往復するだけの毎日は味気ないものだった。

ボーンマスは英国南部だが、冬場は南からの海風が刺すように冷たい。部屋の暖炉はガス式で、コインを入れると決まった量のガスが流れる仕組みだった。節約のため火を消えそうなほど小さくし、日本から送ってもらった冬着を重ねて体を温めた。

穴があいたストッキングを、日本にいるときにしていたように糸でかがって履いていったら、クラスメートから「ヨシコのストッキングはファニーね」と笑われた。

若いクラスメートが笑顔で発した「ファニー」の音がちょっと高くて「面白いね」という言葉の裏に、無邪気なからかいの匂いがあった。

そうこうするうちに半年がたち、日常会話には不自由しないようになった。しかしそんな会話力ではビジネス社会で通用しない。ちゃんとした学校で勉強するためロンドンに移ったのは70年のこと。私は35歳になっていた。籍を置いた「ウエスト・ロンドン・カレッジ」は日本の専門学校のようなものだ。

カレッジは繁華街のオックスフォード・ストリートにあったが、お金がない私にとって、華やかなウインドーもおしゃれな服を着たマネキンも遠い景色にすぎなかった。

カレッジでは秘書のコースに入ってビジネス英語やマナーを学んだ。何ごとにも夢中になる私は疑問も不満も持たず、勉強だけをしていた。

下宿の裏にあった広い芝生の庭。駆け回る大きな犬。生け垣のバラ。覚えているのは下宿の光景だけで、ロンドンのにぎわいを私は知らない。

(テンプスタッフ創業者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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