篠原欣子(7)兄の死

喘息長患い、31歳で他界
遺品の日記を読み母と涙

結婚式の日取りや式場が決まっていたわけではなかったけれど、婚約はしていた。なのに彼のお兄さんは「話はなかったことに」と言う。ほかの男の人とお茶を飲んだりしていたのは全く他意のないことで、結婚話に響くなどとは考えてもいなかった。

私がもう少し大人だったらお兄さんにそう答えられたろうし、彼と結婚したいと思っていることも言葉と態度で示すことができたろう。しかしあのときは頭の中が真っ白になって、足もがくがくと震えて止まらなかった。気がつくと家に戻っていた。どうやって電車に乗ったのかも覚えていない。

突然の破談。その裏の告げ口。私に恥じるところはなかったが、脇が甘かったと言われればそれまでだ。

心が深く傷ついた。私が結婚のために退社することを知った同僚の中に、悪意を隠して「欣子さんは何人もの男と付き合っていますよ」などとお兄さんの耳元でささやいた人がいたとは。身もだえするような悲しさに襲われ、声を殺して泣いた。

傷心は簡単に癒えなかった。だが会社を辞めている私はお金を稼がなければならなかった。仕事を探そうと新聞の求人欄に目を凝らした。

その中で蒲田にあった東洋電業という会社が秘書を募集しているのを知った。3年前に創業したばかりの鋼管専業メーカーで、前の会社に比べればこぢんまりしているが、いまの私には静かな職場の方がよさそうに思えた。

面接に行くと多少英語が話せるせいか、すんなりと採用が決まった。間もなく横浜の自宅から蒲田、会社が移転してからは新橋まで電車を乗り継いで通う生活が始まった。

秘書の仕事が嫌いではなかったし、会社の役員や社員もいい人たちばかりだった。社長の車で船橋の工場に行くのも楽しかった。破談で傷ついた心も、少しずつ元の明るさを取り戻していった。

長兄の秀夫が31歳でこの世を去ったのは東洋電業に入社した翌年の1958年11月17日のことだった。幼いときから喘息に苦しんでいた。夜であろうと昼であろうと、発作が起きると空気を求める肺が風船のように膨らんだり縮んだりを繰り返す。

そのたびに両親は兄の背中をさすり、ただ発作が治まるのを祈るように見守っていた。学校は何とか出たものの、就職しても月のうち1週間は休むから長続きしない。

それでも亡くなる何年か前には美人の恋人ができた。結婚を考えていたようだが、母が反対した。勤めもままならない体では、お嫁さんに苦労をかけると考えたからだった。相手の娘さんも諦めるしかなかった。

そんな兄は病気がひどくなって相模原の病院に1年ほど入院していた。私は休みの日に何度か見舞いに行った。

病院から秀夫兄が亡くなったという知らせが届いたのは夜中だった。朝を待って母と己拔(きばつ)兄が病院に向かうことになり、母は着物を着ようとした。だが手が震えて帯が結べない。「己拔、結んでおくれ」と叫ぶように言った。兄は自宅に戻って荼毘に付された。

会社から帰ると、秀夫兄が使っていた机に向かい、何かを読んでいる母の背中があった。それは兄が残した日記だった。母は泣いていた。「あの子は苦しむために生まれてきたようなものね」。母と一緒に私も泣いた。

(テンプスタッフ創業者)

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