篠原欣子(6)寿退社

取引先の男性と婚約
思わぬ告げ口、直前で破談

18歳のときに玩具店の跡取り息子との縁談を断ってから、男友達はいても恋人と呼べるような男性は現れなかったし、縁談が持ち込まれることもなかった。

仕事は相変わらず課長の秘書役だったが、習い事や工場の行事で忙しく、毎日が目まぐるしく過ぎていった。そんな私は22歳になって、ある男性に見初められた。

会社の取引先の部品工場を経営する人の弟で、私より4歳上。職場の資材部には部品の納入業者が毎日出入りする。彼もそんな1人だったから顔は見知っていた。

その日、仕事を終えて事務所を出ると、彼の軽トラックが止まっている。通り過ぎようとする私に、彼が運転席から顔を出して言った。

「駅に行くの?」「ええ」「じゃあ、送るよ」

それがきっかけになって、お茶を飲んだり食事をしたりするようになった。

自分のことを美人だと思ったことはないけれど、おしゃれに夢中だったので目立ったのかもしれない。それに職場での私は「明るくて元気な娘さん」という評判だった。

若い女性が会社に入るのは結婚までの腰かけで、勤めは行儀見習いみたいなもの、というのが当時の常識だった。私にその常識や風潮への疑いはなく、同僚と同じようにぼんやりと結婚を考える年ごろに差しかかっていた。

彼は中肉中背、まあまあハンサム。真面目な人柄がにじみ出ていた。何より私のことを真剣に思ってくれている。この人と一緒になれば平和な家庭が築けるような気がした。彼はお兄さんに私を引き合わせてくれた。

何度か家に遊びに行き夕食などをごちそうになったが、いつも楽しい団欒になった。幼いころ父を亡くした私は、うんと年上のお兄さんが父親のように思えた。お兄さんも私を気に入ってくれたようだった。

両家、両人の間でとんとんと話は進み、婚約を取り交わして、私は結婚準備のために退社することになった。いまでいう寿退社だ。会社からお祝い金をもらい、同僚には何も言わずに辞めた。

私は目前に迫った結婚と家庭と未来の生活のことを考えながら、その日を待った。そんなさなか、彼のお兄さんに突然、呼び出された。

お兄さんは小さいとはいえ会社の社長で、感情を表に出さない物静かな人だった。だが見たこともない厳しさが顔に浮かんでいる。私はただならないものを感じて緊張した。お兄さんが私の顔を真っすぐ見て言った。

「欣子さん。あなたの同僚から聞いたことなんだが、あなたは弟と婚約してからも別の何人もの男と付き合っているそうじゃないか」

私は思いもかけない言葉に絶句した。一体、なんの話なのだろう。口を開くことを忘れた私に、お兄さんの言葉がかぶさる。

「そんな人を弟の嫁にするわけにはいかない。話はなかったことにしてほしい」

確かに会社帰りに男友達から食事やお茶に誘われれば、軽い気持ちで付き合った。自分にやましいところがないからできたことだった。

彼を好きだった同僚の誰かが、私との結婚を邪魔するためお兄さんに告げ口したということ?そんな人がいるの?殴られたように、目の前が真っ暗になった。

(テンプスタッフ創業者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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