篠原欣子(5)最初の縁談

結納迫り「やっぱりいや
」都心で習い事、出会い多く

入社していくらも日がたっていない私に縁談が持ち込まれた。相手は戦争中、私の家に疎開していた横浜の玩具店の跡取り息子で、その家とは親戚づきあいをしていた。2歳年上の彼はとても真面目な人だった。

知り合ったころ少女だった私は、その人を男性として意識したことはなかったが「そろそろお嫁さんを」と考えた先方は、年ごろになった私を思い浮かべたらしい。

母と己拔(きばつ)兄は乗り気で、先方と話を進めている。私ははっきり断ったわけではなかったけれど、その縁談を受けるとも言わなかったはずだ。

まだ高校を卒業したばかりで結婚というものに対するイメージが湧かない。それに玩具店の奥さんになるというのはどういうことなのだろう。答えが見つからないまま時間が流れていき、結納や式の日取りがそろそろ具体的になろうとしていた。いよいよとなって私は母に言った。「やっぱり結婚はいや」

母から相談された己拔兄が「先方にはもう返事をしちゃったんだぞ。どうしていまになってそんなことを」と厳しい顔をした。「でも、いやなものはいやなのよ」。結局、母と兄が先方に断りに行った。私はもっともっと青春を楽しみたかった。

おしゃれに目覚めていた私は、19歳になると雑誌の広告で見つけた有楽町のビューティースクールに通い始めた。行くのは週1回。平日だが、仕事は夕方の4時に終わるし、女子社員には残業がなかったから、電車を乗り継いでも5時には着いた。

目の前は花の銀座。そこで化粧の仕方、洋服の着こなし方、話し方、歩き方、帽子のかぶり方なんかを教わった。

講師は大物ぞろいで、歩き方の講師は俳優座の演出家だった。折に触れて東京会館で有名人を招いたパーティーが開かれる。

あるときのゲストは新国劇の島田正吾さん。あるときは作詞家の藤浦洸(こう)さん。クリスマスパーティーの司会はNHKアナウンサーから参議院議員になる高橋圭三さんという具合だった。若い男性も来ていて、出会いの場でもあった。

1クラスが30~40人でモデルを目指す人もいた。そんな中から私には3人の友人ができた。仲良し4人娘はスクールが終わると、そろって銀ブラに出かけた。資生堂パーラーでお茶を飲んだり、おしゃれな店で食事をしたり。

それぞれ会社は違っていても同じ年ごろだから話は弾む。仕事のことも話題になったが、何と言っても盛りあがったのは気になる男性のことだった。彼女たちとはいまでも友情が続いている。

あのころはダンスがとても盛んで、私も教習所でワルツ、ジルバ、ブルース、タンゴ、ルンバなどのステップを覚えた。そして休日になると横浜・元町のダンスホール「クリフサイド」に行く。

横浜のYMCAで英会話も習っていた。高校の語学部以来、ずっと英語の勉強は好きだった。将来、英語で身を立てようとは思っていなかったけれど、手は抜かなかった。

白楽にあった生け花教室で草月流を習っていたし、夏には海にも行った。大菩薩峠とか奥日光とかでキャンプもした。それに会社の運動会に慰安旅行。思えば随分と忙しかった。19、20歳はこうして過ぎていった。

(テンプスタッフ創業者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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