篠原欣子(4)就職

工場で課長の秘書役
映画見ておしゃれに夢中

三菱日本重工業川崎製作所は社員約3000人の大工場で、主にトラックやバスを製造していて、米軍車両のエンジンを修理する仕事もあった。20~30トンもある巨大なハンマーで鉄をたたく鍛造工場のそばを通ると、地響きで体が浮くようだった。

終戦から8年がたち、日本が高度成長の坂を登ろうとする時代だったから、いま思えば工場は熱気と高揚感に包まれていた。配属されたのは総務部資材課で、夏に資材部資材課になった。課員は倉庫係を入れて100人はいただろうか。

女性社員は「事務手伝い」と呼ばれ、特別な技能がない限り責任を伴う仕事は任されなかった。それを不思議とも思わず、朝の8時に出社し夕方4時に退社した。昼休みになると男性社員はマージャン卓を囲み、囲碁や将棋を始める。私たち新入女子社員は、先輩の男性社員のために食堂から昼食を運んだ。

午前10時と午後3時がお茶の時間と決まっていて、食堂の「火たきのおじさん」からヤカンにお湯をもらい、30人ほどの役付きの席にお茶を持っていく。それぞれの湯飲みの形や模様を覚えるのが大変だった。

私の仕事は課長の秘書みたいなもので、課長がドアを少し開けて「ちょっと篠原君」と呼ぶたびに席を立って小走りで向かう。すると小さな風がおこってスカートがふわりと広がった。

課長はハンサムで背が高くてかっぷくが良くて、亡くなった父の面影も少し見えるようで、私は淡いあこがれを抱いていた。私の名は「よしこ」なのだが、職場では「きんこちゃん」と呼ばれた。

工場には東横線の元住吉駅から30分ほど歩いて通った。道はまだ舗装されていなくてデコボコだったせいで、ハイヒールのかかとがすぐにだめになった。工場に着くとストッキングと靴を脱いでサンダルに履き替えた。そうしていても高価な絹のストッキングに穴があく。初任給8000円だった私は、自分でかがって大事に履いた。

工場にはザリガニがいっぱいいる池があった。そのそばのコンテナの影がカップルのデートの場になっていた。私にも男友達は何人かいたが、恋愛とかではなくてただの遊び仲間だった。

白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれるのはもう少し先のことだが、それでも電化製品を求める人は増えていて、グループ割引で買える三菱電機の製品の人気が高かった。

母が「食費くらい家に入れなさい」というので仕方なくそうしていたけれど、心では「私が稼いだお金なのに、どうして?」と思っていた。

私が就職した翌年の1954年、ハリウッド映画「ローマの休日」が日本で公開された。それを見た私はたちまち主役のオードリー・ヘプバーンのファンになった。かわいい。ステキ。容姿もそうだがファッションがたまらない。

欧米のファッションがどんどん入ってきていた。中でも当時流行のニュールックがお気に入りだった。ウエストがぎゅっと締まって、スカートがふわーっと広がった服が着たくて、雑誌の付録の型紙を元に、家のミシンで縫った。

地味な事務服を着ていても、美空ひばりの歌をくちずさみながら、おしゃれに夢中になっていた。

(テンプスタッフ創業者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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