篠原欣子(3)高木学園

私立中の2年に転入
英語や読書で青春を謳歌

不登校ではなく、登校拒絶。言い出したら聞かない私の性格を知っている母は、私を転校させることにした。やがて己拔(きばつ)兄が電車で通えて授業料が比較的安い学校を見つけてきた。

こうして1948年、横浜線の菊名駅に近い私立の女子校、高木学園の中学部2年生に転入した。自宅から中山駅まで歩いて30分、菊名まで電車で20分、菊名駅から10分足らず。1時間の通学だった。

学校は高木君(きみ)先生が始めた裁縫塾から発展したもので、明治後期の創立なのに「良妻賢母」を看板に掲げず、自立した女性の育成をうたっていた。私が通っていたとき高木先生はまだご存命で、週に1度、訓話を聞いた。

助産師の母の仕事部屋でもある小さな「診察室」が、家の土間の隅にある。妊婦さんが訪ねて来るときとお産のとき以外は、そこが私の読書室になった。手ごろな広さで静かな部屋に、父が残した本を持ち込んでいつまでも読みふけっていた。

夕方になると居間の食器棚の上のラジオから「証城寺の狸囃子」のメロディーに乗せて「カムカムエブリバディ」で始まる英語の歌が流れてくる。すると私はちゃぶ台に座って、じっと聴き入った。

終戦の翌年にスタートした英会話番組で「カムカム英語」の名前で人気があった。戦前、英語は敵性語とされ、学校でも町中でも耳にすることがなかったが、戦後になると欧米の映画や音楽が奔流のように入ってきて、にわかに英語熱が高まった。

いまでも「カムカムエブリバディハウドューユードュー」と、あの歌が最後まで歌える。相当熱心にラジオを聴いていたようだ。

高木学園は当時、中高一貫だったから入試もなく高校生になった。仲良しの顔ぶれは中学から変わらず「箸(はし)が転んでも」の言葉通りに、ささいなことでもおかしくて仕方がなかった。

進学と同時に語学部に入った。若い男の英語の先生が顧問だった。「郵便友の会」を通じて、マレーシアのペンフレンドを紹介してもらった。届いた手紙を辞書と首っ引きで和訳し、やはり辞書を頼りに返事を書く。

秋の運動会も楽しかった。綱引きやリレーといった種目のほかに恒例の仮装行列がある。普段は制服姿の友人がお母さんのような着物を着たりするだけで、運動場は笑い声に包まれた。

「割烹(かっぽう)」の時間もあった。土間の上に調理台が並び、白い割烹着に三角巾で髪を覆って包丁を握る。火はガスではなく七輪だった。「被服」の時間では針で縫い物をした。比較的手先が器用な私は服をつくる楽しみを知った。

学校名は途中から高木女子商業高校に変わり、楽しい思い出ばかりの高校時代が終わろうとしていた。成績が良かった私は、学校推薦で三菱日本重工業という会社の入社試験を受けることになった。

戦後の財閥解体で分割された三菱重工の1社で、学校に言われるまま南武線鹿島田駅に近い川崎の工場にある講堂で、何百人もの中に混じって答案用紙を前にした。

何日かして学校を通じ合格の連絡があった。友人たちは「よく受かったね」と喜んでくれたのに、当の本人は「そうなのかな」としか思わなかった。振り返れば懐かしい18歳の春だった。

(テンプスタッフ創業者)

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