篠原欣子(2)終戦前後

縁側で玉音放送聞く
中学への通学巡り一騒ぎ

私の小学生のころはずっと戦争の時代だった。農家ではなかったから、父が亡くなったのを境にして、次第に食卓が寂しくなっていった。

農家造りの家の庭で6、7羽の鶏とヤギとウサギを飼っていた。鶏小屋の前に座っていると、めんどりがちょっとお尻を下ろすようにして小さく鳴く。卵を産んだときのしぐさだ。まだ温かい卵を手に取って「うまれたよー」と母のところに持っていくと卵かけご飯が食べられた。ヤギの乳もおいしかった。

でも普段はご飯茶わんの底にサツマイモが混じった雑炊が少しあるだけだった。サツマイモは2人の兄が庭に作った畑で育てたものだ。ある日、母に「1度でいいからおなかいっぱいご飯を食べたい」と大きな声で言った。母が何と答えたか覚えていないけれど、きっと切なかったろう。

助産師の母について忘れられないことがある。近所で医師がさじを投げるほどの未熟児が産まれた。「この子は育たないから自宅で最期を」と言われたという。母はその男の子の小さな体をワラや布を敷いたミカン箱に寝かせ、湯たんぽを置いた。足しげく通って、赤ん坊の背中に差し入れた手で体温を測り、湯たんぽの温度を調節した。

布に含ませて飲ませたお乳が命に息吹を与え、赤ん坊は元気な泣き声をあげるようになった。男の子はすくすくと育ち、そして母への感謝を忘れなかった。初月給で贈り物を買って母を訪ねてきた。贈り物は毎年欠かさず、母が亡くなってからも命日の墓参りを続けてくれた。

母は横浜の学校に通って23歳のとき助産師の資格を取った。教師の夫がいるのだから生活のためだったとは考えにくい。近所に助産師がおらず村の女性が難儀する姿を見ていて「それなら私が」と思い立ったのではないだろうか。その仕事は父の死後、一家6人の暮らしを支える。私にとって母は誇りだった。

1945年になると家の上空を米軍の爆撃機B29が頻繁に飛ぶようになった。やがて横浜や東京辺りの夜空がボーっと明るくなる。その年8月15日、ラジオから流れる天皇陛下の声を家の縁側で聞いた。母の「戦争が終わった」という声が、せみ時雨の中からぼんやりと耳に届いた。

といっても私が生まれ育った神奈川県都筑郡中里村小山、いまの横浜市緑区小山町は空襲を受けたわけではなかったから、終戦後も里山が連なる田園の村は、何が変わるということもないまま静かに日々が過ぎていった。

そうこうするうちに、私は山下国民学校初等科6年を終え1947年春、新制谷本(やもと)中学の1期生となった。谷本中学は少しはにぎやかな中山の駅前とは反対側にあった。人家もまばらな道をたどり、小高い山を越えて行かなければならない。

毎朝40分の通学はつらくなかったのだが、集団登校で一緒になる近所の男の子たちが、遅刻も気にせず道草を食うのだけがいやだった。いいかげんさが許せない。1年間は我慢した。しかし2年生になるとこらえきれなくなり、学校に行くのをやめた。

1週間か10日ほどたって、担任の先生が我が家を訪ねてきた。奥の部屋に隠れていると、玄関先から先生と母の声が交互に聞こえてくる。しばらくして母が私のところにやって来て言った。
「先生と直接お話ししなさい」
「いや」

(テンプスタッフ創業者)

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