篠原欣子(29)生老病死

よりよい人生手助け
母逝き、介護・保育に夢託す

1993年10月5日、母タツが胃がんのため亡くなった。享年92。

1年前から自宅近くの病院に入院していた母を、毎週土曜日に見舞った。外の空気を吸わせたくて車いすで病院の庭に出たが、母はつらそうだった。それからずっとベッドに横たわっていた。

己拔(きばつ)兄から「おふくろが危ない」という電話をもらって、取るものも取りあえず駅に急いだ。車だと赤信号のたびに止まる。まっすぐ病院に行きたくて飛び乗った電車の中で、人目もはばからず子どものように泣き続けた。

会社を興したとき母がお金を貸してくれたおかげで資金繰りを乗り切れた。それからDMの宛名書きを手伝ってくれた。老いとともに書き間違いが増えて、たくさんのDMが戻ってくるようになったけれど私はうれしかった。母が大好きだった。

己拔兄夫婦、私、妹の敏子の4人が見守る中、母は苦しげな息をして眠っている。兄が「3人でお昼を済ましてこいよ」というので、出かけて戻ってくると、母は息を引き取っていた。まだ温かい亡きがらにすがって声をあげた。一緒に暮らそうとマンションの1室を買っていたのに、それもいまはむなしい。

葬儀を終えてから折に触れて病室の光景を思い出した。寝たきりの母をかいがいしく世話してくれる看護師やヘルパーさん。老人の介護や病人の看病は、心だけではなく技術の問題なのだと知った。

仏語で「生老病死」と言う。人間は生まれて死ぬまで様々な苦しみに出合う。その苦しみを少しでも和らげることができれば、どんなにいいだろう。助産師だった母もそのために生きた一人だ。

母が亡くなってから、在宅介護や企業向けに看護師を派遣する子会社を設立した。この会社はいま品川区で認知症のお年寄りのグループホームを運営している。4階建てビルの3、4階がお年寄りの住まいで1、2階が都の認可保育所になっている。

併設の保育園を運営しているのは社内ベンチャーから育った会社だ。2000年に募集を始めたら、若い男性社員が「保育の仕事をやりたい」と提案してきた。「命懸けでやれる?」という問いに「はい」と答えた彼は、首都圏に5つの直営保育園を持ち、保育士の派遣、学童クラブや児童館、地域交流施設の運営受託などを手掛ける会社に成長させた。

テンプグループは人材派遣業を幹としながら、様々な枝を広げている。私は人々が、中でも女性が「働く」ことを通じてよりよい人生を送れるようにと願ってきた。その願いをかなえるためのさまざまな事業も育った。

個人の資格で「篠原学園専門学校」を経営している。もとは神田神保町にある医療秘書養成のための専門学校だったが、私が経営を引き継いでから保育士養成コースを新設した。学校に顔を出し、若い人が勉強している姿を見るのが何よりの楽しみだ。

8歳で父を亡くし、母も逝った。姉の美多子もこの世にいない。幸い兄、私、妹は命永らえ、それぞれの日々を送っている。とはいえ私もこの10月で79歳になる。残された命には限りがあるが、これからも前だけを見ながら生きていこうと思う。

(テンプスタッフ創業者)

=おわり

篠原欣子(28)リーマン危機

「雇用を守る」固い決意
官公庁の業務、次々に受託

2008年9月15日、米投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻した。これをきっかけにした世界同時不況の波は株安、円高となって日本経済を襲う。

日本企業は業種を問わず生産、流通、販売に急ブレーキがかかり、人材派遣業界も直撃を免れなかった。新たな派遣依頼がぱたりと途絶え、派遣契約期間が終わったら継続してくれない。

テンプスタッフも09年3月時点で、前年度に比べて派遣依頼が半減した。求人広告を大幅に手控えたため、新規登録スタッフ数も減った。赤字にはならなかったが、非常事態だった。

その年から事業連携の動きが活発化し、当社はピープルスタッフと経営統合してテンプホールディングスを設立、富士ゼロックスキャリアネット、コベルコパーソネルなどの株式を取得した。

私はどんな会社とのお付き合いでも「対等」を基本にして臨むことにしていたから、交渉を担当する役員や社員に「こちらが少し損するくらいでいいの。その方が後々、気持ちよく一緒に仕事ができるから」と言った。

経済環境が依然として厳しく「業界全体で1万人のリストラが必要」といわれる中で、私は「人材派遣会社が生き残りのためとはいえ、働く場を減らすなんておかしい。絶対雇用は守る」と決めた。まずは長期間登録して働いてくれているスタッフの仕事を確保すること。社員のリストラもしたくない。役員たちと議論を重ねた。

ちょうど経費削減を迫られた官公庁から大型受託案件が次々に舞い込んでいた。競争入札なので利益は望めないが、受託によってスタッフの仕事が生まれ、管理責任者として社員が常駐すればリストラを回避できる。つまりアウトソーシング分野への進出というテーマが浮上した。

「その仕事は私がやります」と手を挙げてくれたのは取締役の和田孝雄さん(現テンプスタッフ副社長)だった。こうして10年4月、和田さんを本部長とするアウトソーシング事業本部が発足した。

法務局の窓口業務を皮切りに、官公庁の仕事を次々に受託した結果、不況にもかかわらず多くのスタッフに働く場を提供でき、300人の社員が社外で仕事を始めた。

やがて顧客企業から「コールセンターを施設ごとお願いしたい」とか「事務センターを請け負ってくれませんか?」といった要望が寄せられるようになった。そこで宮崎市内に400席のアウトソーシングセンターを開設した。

派遣業界は設備が不要で工場もいらないという身軽さが身上だった。つまり「持たざる経営」こそ利益の源泉でもあった。それを「持つ経営」に転換したのは、雇用の創造を最優先したからだ。過去の成功体験に意味はない。

起業から40年。気がつけばグループ会社55社を含めたテンプホールディングスは今年3月期で社員5970人、売上高2472億円、国内拠点268、海外拠点27を数えるまでになった。

3月29日にパナソニックの設計開発子会社2社の過半数の株式を取得した。たまたま大阪に行く機会があって、昨年夏、松下幸之助さんの旧居を見学した。

起業して間もなく資金繰りにもがいていたとき、松下さんの本に書かれた言葉の数々に救われた。そのときのことを、ありありと思い出した。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(27)上場

東証の面談に備え勉強
1人で始めて32年、感無量

会社の業績はその後も右肩上がりで伸びていった。よその会社で営業の訓練を積んできた男性社員たちがテンプスタッフに入ってきたのを機に、会社の体質は変わった。毎年入社する新卒社員たちが若いエネルギーをもたらしてくれる。

いつのころからか「今後、会社の姿はどうあるべきだろう」と考えるようになった。もし私に子どもがいたら、しかるべき時期に経営を引き継げばいい。でも子どもはいない。そしていずれは私が経営の一線を引く日が確実にやってくる。

ではどんな形で会社を残すのがベストなのか。個人的にコンサルタントを頼んで、折に触れ相談していたが、なかなか思い切りがつかない。

人材派遣会社は社会性が高い。株式を公開しガラス張りにして、多くの人に支えてもらう必要があるとは思っていた。その方がスタッフも社員も安心と誇りを持って働けるだろう。

だからというわけではなかったが1999年、ある監査法人にいた公認会計士、佐分紀夫さん(現テンプホールディングス常務)に入社してもらった。いずれ決断するとき彼が必要になる。彼には取りあえず会社の財務を点検してほしかった。

佐分さんは何度か「上場した方がいいんじゃないですか?」と言ってきた。しかし会社は我が子同然。その行く末を考える時間がほしい。92年に準備がほぼ終わっていた店頭公開を中止したが、いまも時期尚早のような気がする。

2004年の初めになって、私は株式を公開することに決めた。どうせ公開するなら、多くの人の目に触れる東京証券取引所にしたい。佐分さんに聞くと当社の株式の時価総額は1000億円を超えるので東証1部に上場することになるという。

05年を上場準備に費やした。書類審査は厳格を極め、質問状が何度も届いた。その都度、佐分さんたちが兜町に足を運んで説明を重ねた。株式を上場するということは不特定多数の投資家に株を買ってもらうことだから、企業の経営状態が健全でなければならない。審査が厳しいのは当然だろう。

準備が大詰めを迎え、東証の審査担当者による事前面談があった。「ガバナンスはどうなっていますか?」「コンプライアンスの現状を教えてください」「その点について経営者としてどんな指示をしましたか?」

上場の可否は最後の東証役員による社長面談で決まる。佐分さんは「相手は東証の専務以下7、8人です。私たちは同席しますが、発言できるのは社長だけです」と言う。

万全を期すために証券会社の人たちに何度も来てもらって、面談のポイントについて猛勉強し、模擬面談も経験した。「みんなが頑張って準備してくれたのに、私が最後にこけたら面目が立たない」と思ったからだった。

東証専務との面談、いわば口頭試問はあっけなかった。東証ではすでに私のことを含めて当社の全てを承知だったようで、1時間の面談はずっと和やかだった。

06年3月17日、テンプスタッフは東証1部に上場した。初値は17万1000円。初日の終値は19万7000円。社内で拍手が鳴り響いた。

わずか8坪のアパートに小さな看板を掲げて32年がたっていた。長かったような気もするし、ついきのうのような気もする。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(26)教訓

情報守り抜く使命痛感
統括部署設け役員も研修

人材派遣会社にとって、登録スタッフがどんなスキルと就業履歴を持っているかという情報が何よりの資産だ。それがあるから顧客企業からくる派遣要請に的確にこたえられる。しかしその情報はスタッフにとって重要な個人情報であり、どんなことがあっても守り抜く使命がある。

わかっていたはずだが名簿流出事件を体験して初めて骨身に染みた。2度と同じ過ちを繰り返してはならない。

名簿流出を報じる週刊誌が発売された当日の1998年1月29日、システム監査室(現情報統括室)を発足させた。社内に流通するあらゆる情報の保護・管理・活用をサポートする組織だ。情報に対する考え方をがらりと変えた。

例えば「そちらに登録しているスタッフの兄です。母が危篤なのですが、妹は10年前に家出したままです。連絡先を教えてもらえませんか?」という電話がかかってきたとする。以前は疑うこともなく教えていただろう。

いまは登録そのものが個人情報のため「そのようなスタッフがおりましたら、スタッフから連絡させます」と答えている。もしも電話の主がストーカーや悪意を持った人物だったら、連絡先を教えた「無意識で善意の人(社員)」が「加害者」になってしまう。善意の加害者を生まない責任がある。

テンプスタッフの本社・支店には3000台のパソコンがあるが、社員用は全てデスクトップ型。特別の許可がなければ記憶媒体をつなげないから、一切のデータが外部に持ち出せない。

出先でスタッフや顧客企業の担当者と話をするときも、当社の社員はノートパソコンやタブレット端末を使わない。いったん話を持ち帰りデータを見て返事をする。二度手間だが、情報管理のためにあえて不便さを選んだ。

情報管理の担当役員や社員が「こうしたい」と言ってくると、私はどんなささいなことでも「進めて」と答えてきた。その結果、私も含めて全社員が地味な会社支給のカバンを持つことになった。

会社の資料を持って外出するときには、必ずこのカバンに入れ替え、肌身離さず持っていなければならない。すると必要最小限の資料しか持たない習慣が定着してきた。

スタッフから電話がかかってきたらスタッフ番号、生年月日、名前の漢字表記と読み方で本人確認する。ファクスする場合も短縮番号が入っていない場合は2人で番号を読み上げながら送信する。

個人情報が含まれる文書は必ず鍵がかかるデスクやキャビネットに保管する。万一、名刺入れ、鍵、カバンなどをなくしたり盗まれたりしたときは「情報事故」として60分以内に情報統括室に報告し、徹底的に捜す。

マニュアル通りに実行されているかどうかを監査部門が年に1回監査するし、役員も含めて全社員が毎年、「情報保護研修」を受けている。もちろん私も例外ではない。最初は「これでは仕事にならない」という社員もいたが、いまは当然のことになった。

「何もそこまで」と思われるかもしれない。しかし羹に懲りたからこそ、懸命に膾を吹いてきた。

メモをした付箋から雑多な文書まで毎日シュレッダーにかける。その量は膨大だ。そこでハンディのある人を10人ほど雇って処理の仕事を任せている。毎朝、彼らが2人1組で働いている姿を見ると、ちょっぴりうれしい。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(25)不眠不休

罵声・ゆすり、会社は戦場
スタッフに不安、悔恨の涙

記者会見の翌日、つまり1998年1月29日、問題の記事が載った週刊誌が発売されると、管理職ら20人が詰める対策本部は戦場になった。私は「営業活動をストップし、全社でスタッフ、クライアントへの説明と謝罪に専念すること」という指示を出した。すぐにスタッフの相談に応じる専用電話を並べ、各地の営業拠点に専任担当社員を2人ずつ配置した

そして会社のホームページ(HP)におわびと経過説明を掲載し、リストに載った9万人の登録スタッフ全員におわびの手紙を送り始めた。夜中まで宛名書きと封かん作業を続けたのは、夕方に仕事を終えた社員たちだった。

メディアが一斉に報じたため、スタッフから「なぜデータが流出したんですか?」「本当に漏れたデータは消去されたんですか?」「いたずら電話があったらどうしたらいいですか?」といった電話が鳴りやまない。

社員が懸命に謝りながら説明するのだが、自分の住所、氏名、生年月日、電話番号を見ず知らずの人物に知られているかもしれないというスタッフの不安の解消にはつながらない。電話のやり取りに関する報告に、私の胸はきりきりと痛んだ。

各地の営業拠点にいる社員にはスタッフの親からも電話がかかってくる。罵声も届く。一途に不安を訴える声をじっと聞かなければならない。それが毎日繰り返される。対策本部には、長くつらい仕事に耐えられず「もうできません」と泣きながら電話をかけてくる社員もいた。

そのうち「リストを持っているんだけど、どうしたらいいの?」というような電話が入るようになった。ゆすりたかりのたぐいだ。「おれを雇ったらすぐに解決してやる」というものもあったが、対策本部の社員たちは丁寧に、そして毅然と対応した。

ただスタッフの不安解消は急務だった。万一に備え会社で防犯ブザーを買い込んで、希望するスタッフに貸し出した。もしまだ消去されていないリストがどこかにあって、それが原因でスタッフに不測の事態でも起きたら取り返しがつかない。私も不安にさいなまれていた。

事態が沈静化しつつあった3月24日、青い顔の水田正道さんがやって来て「まだリストを売っているHPがありました」と声を落とした。2次流出?「ああ、もうだめだ」と心の中でつぶやく私に水田さんが言った。「私が何とかします」。水田さんの後ろ姿を祈る思いで見送った数日後、「解決しました」という報告を受けた。

事件が発覚してから対策本部の社員たちは不眠不休だった。しかし、その責任者の成田徹さん(現パーソナル社長)が「ここで負けちゃいけない。下を向かないでちゃんとやろう」とみんなを励ましていたことを知っていた。

リストの3次流出はなかった。リストが原因と思われる問題も起きず、スタッフの不安は日を追って薄れた。事態が落ち着いてきた5月23日、近くの会議場を借りて社員総会を開いた。520人の社員の顔を見た途端、目頭が熱くなった。私は名簿流出を知ったその日に経理部に行き、最悪の事態になっても1年間は全社員に給料を払えることを確認していたが、そんなことにならなくてよかった。

壇上で社員たちへの感謝と、情報を守れなかったことへの悔恨の涙が止まらない。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(24)最大の危機

9万人分の名簿流出
週刊誌に記事、会見で謝罪

1998年1月20日、フリー記者が「おたくの登録スタッフの情報が漏れていないか」と問い合わせてきた。2日後、関連会社の役員から「知人のスタッフが週刊誌の取材を受けた」という連絡があり、スタッフの相談窓口に別のスタッフが「週刊誌から……」と申告してきた。

出張中の私に取締役営業本部長だった水田正道さんから電話があった。「何か大変なことが起きています」。胸騒ぎを覚えながら東京に戻り水田さんと一緒に、取材を受けた女性スタッフと会った。彼女は「住所、電話番号、生年月日などを確認され、テンプスタッフに登録したことがあるかと尋ねられました」と答えた。住所などの個人情報はすべて正確だったと言う。

我が社のスタッフ情報が流出しているのは間違いない。もしそれが拡散したら若い女性スタッフにいたずら電話やストーカー被害などの危険が及ぶ。いやスタッフが離れて会社が潰れるかもしれない。顔から血の気が引き「あーあーあー、なんてこと」と叫んでいた。水田さんの膝も小刻みに震えている。

24日未明、本社近くのビルの一室に緊急対策本部を立ち上げた。緊張して居並ぶ20人ほどの管理職に、私は「最初にして最大の会社の危機です。いまはともかく、スタッフさんを守り抜いてください」と言った。

対策本部で手分けしてネット上のホームページ(HP)をしらみつぶしに調べたところ「9万人分の女性リストを提供します」という会員制HPが見つかり、サーバーをたどっていったら主宰者の住所と名前が判明した。その夜、水田さんとシステム担当社員が主宰者の家の前で待っていると、普通のサラリーマンらしい若い男性が帰ってきた。

当時は個人情報保護法がなく、電気以外の無体物は持ち出しても罪を問えなかったが、影響の大きさを訴えると男性はあっさりHPの閉鎖を受け入れ、システム担当社員がその場で閉鎖した。「ところでこのリストをどこから入手したんですか?」「1万円の入会金代わりにもらったんです」。たった1万円でこんな大事なものを?

男性のパソコンの中からある人物のアドレスが見つかった。それは前年に我が社のシステムを再構築したとき、開発を外注した会社の若い社員のものだった。自由に出入りできたことをいいことに、登録スタッフのデータを持ち出したらしい。

翌日、その男性の自宅に行って詰め寄ると渋々認めたため、すぐにパソコンを開けさせデータを消去した。問題のHPからリストを買った100人近い人物には購入費用を払うことでデータ消去を求め、全員が応じた。

週刊誌の中づり広告が出た。「容姿ランキング付きリスト流出」とある。確かに個人別にA、B、Cのマークを付けていたが、それは職能や接遇・マナーなどを評価した分類だった。

容姿で派遣の優先度を決めていたら事業は成り立たない。そもそも9万人ものスタッフを誰がどうやって判定するのか。ばかげた話だ。

28日、旧労働省の記者クラブで会見した。大勢の記者を前にするのは初めてだった。私たちは経過や原因に関する矢継ぎ早な質問に答えたのだが、最後は「すみません、すみません、すみません」とひたすら頭を下げ続けるほかはなかった。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(23)2つの迷い

株式公開、土壇場で中止
バブル期、ビル購入も撤回

新卒1期生が入社してきた1990年、私は迷っていた。ひとつは前年の暮れに動き出した株式公開問題だった。会社の業績は伸びていたが、業界トップ企業との差は小さくない。

地価が下がってからビルを買った
その差を縮め、トップの座を狙うためにも将来の上場を念頭に株式を公開すべきだ、という意見が役員の中から出てきた。私も「そうかもしれない」と思い、公開のための準備を始めることを了承した。

公認会計士、証券会社の担当者が頻繁に出入りし、担当セクションは膨大な資料づくりのために連日深夜まで作業を続けている。役員、社員は自社株を持っているから、公開されて高値がつけばちょっとしたお金が入る。「車を買うよ」「やっぱり海外旅行かな」といった会話があちこちで交わされるようになった。

ただ問題があった。そのころの登録スタッフは国民健康保険などそれぞれの立場に応じて何らかの社会保険に入っていたが、株式を公開すれば、全員が当社を雇用主として政府管掌健康保険に加入することが前提となる。

となれば当時は国保より政管健保の方が保険料が高かったからスタッフの負担が増える。それに派遣会社を替わるたびに、面倒な手続きをし直さなければならない。水田正道さんに意見を聞くと「スタッフがいやがって、他社に流れるんじゃないですか」と言ってきていた。

もうひとつの悩みは自社ビル購入問題だった。青山の本社ビルは手狭になっている。地価は「年率3割」の勢いで高騰し、銀行はいくらでも融資してくれる。「いま買わないでどうする」という雰囲気の中で、ある役員を中心に50億円のビルを買う話が不動産会社との間で進んでいた。

株式の公開も自社ビル購入も役員の進言だったが、成長のための投資と自分に言い聞かせた。ただ何かひっかかるものがあるのに「やめる」と決断する決定的な理由がみつからないのがもどかしい。

自社ビル問題は契約書に判子を押すだけというぎりぎりの段階で「買わない」と決めた。迷い続ける中で、身軽でなくなることへの不安を感じたからだった。担当の役員にそのことを告げ、不動産会社に同行を求めたが憤然とした表情で「先方に合わせる顔がない。行きません」と言う。

仕方がないので私ひとりで断りに行った。「だから女はだめなんだ」「いまごろやめるで通ると思っているのか」と罵倒されたが、じっと頭を下げていた。

そして店頭公開準備はほぼ終わり、証券会社が我が社の株に予想市場価格を付けた。あとは1カ月後の公開を待つばかりとなった92年3月、私は「公開中止」を決断した。公開担当の役員は「はしごを外された」と怒り、口論になった。証券会社の幹部にも罵倒された。

しかし公開したら持ち株の多い社員に大金が入って浮足立つようなことにならないか。そのことも心配でならなかった。

ほどなくバブル経済の崩壊とともに地価は暴落した。あのとき自社ビルを買っていたら、我が社は窮地に陥っていただろう。株式を公開していれば、水田さんが言ったような事態を迎えていたと思う。優柔不断か熟慮の末か。どちらにしてもふたつの決断は正しかったと信じている。

地価が下がってから代々木にあったビルを買った。27億円だった。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(22)社内改革

あつれき越え「企業」に
初の新卒、世代交代を呼ぶ

男性5人の連判状を受けとった1990年の4月、初めて新卒採用に踏み切った。どんな色にも染まっていない白いキャンバスのような若い人たちが入ってくるのを機に、会社を根本的に変える決意を固めた。

新卒社員が入社する前日付でかつてない規模の人事異動を発令し、数人の支店長をバックオフィス(管理部門)に配属して、後任に若い男性社員を充てた。

バックオフィスに移ったある支店長から毎晩のように自宅に電話がかかってくる。「社長がそんなに冷たい人とは思いませんでした」「これまでの苦労はなんだったんですか」という悲鳴のような声に心が痛んだ。やがて彼女は辞めていった。

支店でも数値目標を立てて顧客開拓をしようとする支店長と、従来のやり方を捨てきれない社員との間で理屈と感情を交えた応酬が続いていた。私はそれぞれの気持ちもわかったが、ぶつかり合いこそエネルギーの源。手出しせずにじっと会社が新しい形に順応するのを待った。

男女20人の新卒社員1期生が入ってきたのは、そんな混乱のさなかだった。当時はバブルの絶頂期で就職戦線は完全な売り手市場。大手企業があの手この手で学生を囲い込もうとしていた。

人材派遣業という業界自体が成長途上で、その中でもトップ企業ではないテンプスタッフに一体どれだけの学生が関心を持ってくれるだろうかと不安だった。

前年の会社説明会は青山の本社に近い「こどもの城」の1室を借りて開いた。予想に反して部屋いっぱいに学生が来てくれ、私は彼らの顔を見ているだけでうれしくてずっとほほ笑んでいた。

学生が訪問してきても会社に人事部がなかったから、私と水田正道さん、人事担当社員で面接した。話を聞いてみると全員が大手商社や不動産会社、生命保険会社、広告代理店などの内定をもらっていて、中には6社内定という学生もいた。

会社は組織整備と社内改革が始まったばかりだった。大手の内定をもらっている学生にとって、なんと未熟な会社だろうと思われるのではないかと心配だったが、そうではなくて彼らは「テンプスタッフは小さくてもこれからの会社だから、逆にやりがいがあるのでは」と考えて入社を決めてくれた。

彼らは過去のテンプスタッフを知らないが故に大胆な提案をし、精力的に営業に回った。同期で飲み屋に集まって、随分議論もしたらしい。そして2年から3年で支店長にあたるマネジャーに育ち、その後も社内ベンチャー企業を次々に興していった。

新卒組は会社に清新な風を起こした。バックオフィスに回った元支店長たちも入れ替わった会社の空気になじみ、新しい舞台で持ち前の力を発揮するようになった。

その年、私は全体責任者会議で「今期180億円を目指す」と創業以来初の売り上げ目標を掲げた上で「達成したら社長賞を出します」と宣言した。こうしてテンプスタッフは「企業」になった。私もどうにか「経営者」になり、この「第二の創業期」を経て会社はひと皮むけた。

グループの会長兼社長だった私は、安心してこの21日付で水田さんに社長のバトンを渡した。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(21)5人の決意

組織の整備訴え連判状
「仲間意識」の経営に幕引き

水田正道さんという、異業種でばりばり働いていた男性が入ってきただけで、会社はぐらぐらと揺れ出した。

水田さんが他の支店に登録していたスタッフを派遣したらその支店長から「彼女はうちの支店のスタッフよ。どうして勝手なことをするの」と猛烈な抗議の電話がかかってくる。水田さんは「スタッフによろこばれることをして、何が悪いんですか」と反論した。

女性支店長たちにとって支店は自分の城だから、そこに触れられることを嫌った。スタッフとの強いつながりこそ、何よりの宝だった。会社という全体ではなく、支店が全てになっている。

ある日、水田さんが私を呼び止めて「このままでは会社は潰れます。仲間を連れてきていいですか」と言った。会社は生き物だ。経営者自らが揺さぶって変化させなければいけないと常々考えていた私は、即座に「そうしなさい」と答えた。すると水田さんが前にいた会社の後輩たちを中心に、10人ほどの若い男性が入ってきた。

とたんに彼らから声があがった。「数字が公表されていない」「数値目標がない」「顧客志向がない」。彼らの理詰めの批判は、あうんの呼吸と強烈な仲間意識で会社を急成長させてきたと自負する女性たちの感情にトゲとなって刺さった。

「営業にインセンティブをつけて業績向上を図ったらどうでしょう」と男性が提案すると、すかさず女性が「お金で釣ってもうまくはいかないわよ」と反論する。だがそれは単純な男性対女性の構図ではない。新と旧の、攻めと守りのせめぎ合いだった。

私は会議が荒れても仲裁しなかったし、よほどのことがない限り発言しなかった。いま会社で何かが動き始めている。どっちに転ぶのかわからないけれど、じっと目を凝らしているときだと思った。

1990年2月22日、「大事な話がある」というので会議室に行くと、水田さん以下5人の男性社員が並んでいる。水田さんが5人連名の「平成2年度の経営方針のための意見書」を読み始めた。

「1、人材派遣業のトップ企業になるための経営方針および目標を明確にしてください。特に、営業、財務、人事、システム、CI、組織の戦略を各論ベースで明確にしてください」

「2、計数管理を確立し、各部門、各拠点ごとに責任の所在を明確にし、経営方針の実行を確実なものにしてください」

「3、実力主義に徹し、客観的にみた成果に対する正当な評価をしてください」

連判状とも言える文書の末尾には「有言実行をしていただけない場合、それなりの覚悟があることを追記させていただきます」とある。

私は社員と同じフロアで同じような仕事をしてきた。みんなで一緒の空気を吸い、目線も一致していたから戦略や方針はなくてもよかった。そして本社と支店しかない組織は柔らかく、コンパクトでコストもかからなかった。

支店長に対しては「任せる、褒める」の方針で、特段の指示も出さず自分で考えさせてきたけれど、社員が100人、売上高も100億円になるとそれではいけないに違いない。組織にもやり方にも限界がきているようだ。

私は居並ぶ5人の男性に向かって「わかりました」と答えた。

(テンプスタッフ創業者)

篠原欣子(20)支店長会議

営業のプロをスカウト
厳しい指摘に反論できず

会社を興したときから「顧客に安く、スタッフに高く」をモットーに粗利益を低く抑えてきた。しかし社員が増えた上に、業界挙げての価格競争に巻き込まれている。このまま何もしなかったら、いずれスタッフや社員の給料も払えなくなる。

女性支店長たちに「売り上げが伸びないわ。何が原因かしら」と聞いてみた。しかしピンとくる答えは返ってこない。彼女たちは受話器を置く暇もないくらい派遣依頼の応対に忙しかった。登録スタッフのことをよく知るベテランほど、顧客の要望に応じられるスタッフとの調整に追われている。目の前のことで手いっぱいなのだ。

外回りに行くといっても、顧客企業から紹介された会社に出向くことがほとんどで、新規開拓ではない。ずっと派遣依頼はほっておいてもきた。だから攻めの営業の経験を積んでいない。

支店長は一国一城のあるじだ。長年取引してきた顧客企業があり、大切にしてきたスタッフとの信頼関係もあつい。これまで通りのことをやっていれば特に問題は起きないし「守る」「変えない」ことが大事だった。

私からあれこれ細かく言えば済んだかもしれないけれど、苦楽を共にしてきた彼女たちの方から変わってほしいと思っていた。私は苦くてつらい思案に沈み込み、その末にある決断をした。

我が社に水田正道さんという29歳の男性が出入りしていた。リクルート青山営業所で求人雑誌「とらばーゆ」の営業をしている。私が「1ページよ」と言った広告を勝手に2ページ出して請求してくることが何度もあったが、どこか憎めない。何よりバイタリティーにあふれていた。

そんな水田さんに88年の年明け早々、電話で「ちょっと来てくれない?」と言った。笑顔で現れた彼に広告を発注しながら「うちに来ない?」と水を向けてみたが、彼は「ご冗談を」と頭をかきながら帰っていった。

水田さんは社員の多くが若くして転職する社風の会社にいるし、派遣業界に関心を持っている感触もあった。しばらくして営業に来た彼に「この間の話、どう?」と聞くと「そこまで言ってくださるのならお世話になります」と頭を下げた。

ちょうど川崎に支店を出そうと思っていたので、水田さんに「支店長をやって」と言うと「わかりました」と答え、たった1人の部下を伴って赴任していった。

ほどなく支店長会議があった。支店長会議といっても「こんなふうに頑張っています」とか「お客さまからこのような感謝の言葉をいただきました」といった報告をする場だった。ところが水田さんが発言すると空気が一変した。「どうして各支店の売り上げが支店でわからないんですか。これでは売り上げ目標が立てられません」

顧客企業への請求とスタッフへの支払いは本社の担当部署が一括処理しているから、個々の支店の売り上げは支店長も知らない。支店が売り上げ競争でぎすぎすしないためにそうしてきたのだが、普通の企業では考えられないことだという。水田さんの批判は私にも向けられていた。

攻めの営業を得意とする体温の高い会社で仕事をしてきた人の指摘は鋭かった。しかし支店長たちは、水田さんの厳しい言葉に気押されたように沈黙している。

(テンプスタッフ創業者)