渡文明(15)復帰

アクの強い部下束ねる
課長として夜を徹し議論

病気で1年遅れて、もういいかげんに生きていこうと一瞬すねた時もある。しかし後ろ向きなことは性分が許さない。どんな逆境でも最善の道を探そうとする。

ポストへのこだわりは病気したおかげで消えた。上の人が何と思おうと、会社のために正しいことは主張しよう。開き直りの人生が始まった。

1978年3月、販売2部燃料課の課長代理になれた。41歳で同期の第一選抜より2年、標準より1年遅れだが、素直にありがたかった。

仕事は主として電力会社向けの業務だ。火力発電所の燃料としてナフサ(粗製ガソリン)も使うことになって、価格をどう決めるかが課題だった。石油製品はすべて原油から生産するので、コストの割り振り方で各製品の価格が変わる。

電力会社は、総括原価に組み込んで第三者に合理的に説明できる価格でないと、承知しない。日本石油と東京電力との間で決まれば、ほかの電力会社は右にならえをするチャンピオン交渉である。

互いに理論をぶつけ合う。ある時、前提が違うことに気づき、部長の野田進一郎さんに「東電は納得しましたが、訂正したい」と報告した。ところが「間違いを認めては駄目だ」と言う。「日石への信頼がすべて瓦解してしまう。正当化できる理屈を考えろ」

確かに理論の立て方次第なのだから、全くの間違いとはいえない。1週間かけて組み立て直して、事なきを得た。

3年後44歳で販売2部燃料1課長になる。東電だけでなく新日本製鉄(現新日鉄住金)や日本郵船などの大口需要家向け業務を担当する。燃料1課は総勢約15人で、官庁などとの折衝もあり、理論闘争に強い頭脳集団である。

私は「有言実行」を指導方針に掲げた。困難な目標も言葉に出して、自らを限界状態に追い込んで実現に向けて努力するという考え方だ。

課には「有言実行」を地で行くうるさい連中がいた。際だっていたのは、新日石ガスの社長になった吉田清君、後にNIPPO副社長の岡部達之介君、日石開発社長になる甲斐勝君の3人で、私の課の係長だった。いずれも日石で有名なつわものである。

こうと思ったら、課長の私の言うことなんか聞かない。吉田君は納得せず、酒を飲みながら明け方まで議論したことがたびたびある。「間違っている方が辞表を出そう。辞表を書け」ととことんやった。

岡部君は態度がふてぶてしい。だれかれ構わず人の話を足を投げ出して聞く。甲斐君はトップとの摩擦も恐れない。疲れるが、こちらに食ってかかるくらい真剣な連中が私は大好きだ。私も啓発され、ヒントが得られる。おとなしいイエスマンはつまらない。

課長になったころ、世界の石油事情は大きく変わってきた。83年3月、石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を初めて値下げした。値上げして石油ショックを引き起こした10年前とは様変わりである。日本では石油製品の輸入自由化問題が出てきた時だ。

石油連盟は6月、アジア、オーストラリアの供給力を把握するため調査団を派遣した。団長に私がなり、完全自由化は時期尚早との報告書をまとめて通商産業省に提出した。これが認められて輸入を精製会社に絞る特定石油製品輸入暫定措置法ができたが、石油産業の自由化はもはや避けられない現実になった。

(JXホールディングス相談役)

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