渡文明(12)東京本社へ

ガソリン無鉛化で奔走
係長時代に初の海外出張

東京勤務に変わったのは1970年の4月である。大阪千里の万国博覧会が3月に開幕して、家族で見物してから引っ越した。

東京本社の配属先は販売部黒油課である。重油を扱う課だ。ガソリン、灯油、軽油は白油課が扱う。たぶん大阪で「ブルースカイ計画」をまとめて、A重油を売りまくった企画力が買われたのだろう。

当時、大気汚染対策として重油の硫黄分規制が全国に広がる時期だった。大阪の経験を生かそうという狙いもあったと思う。

A重油の全国の販売を総括するのが本社の黒油課である。私にすれば大阪の仕事の延長だからお手のものだ。A重油がばんばん売れて、横浜・根岸の製油所で品切れが何回も起きる騒ぎになった。

5月に33歳で係長に昇進した。ここからが管理職への出発点である。「名誉なことだから、今日は残業をしないで帰って、奥さんに報告しなさい」と上司に言われたが、酒を飲みに行って相変わらずの午前様である。

72年に白油課に移り、ガソリンの無鉛化問題にぶつかる。70年5月に新宿区の牛込柳町で集団検診した住民から高い濃度の鉛が検出されたとのニュースが報じられた。東京都の再調査で特に異常はないとされたが、ガソリンの4エチル鉛が問題になり、政府からガソリンを無鉛化せよとの通達が出た。

4エチル鉛を抜くと、エンジンの中で部品の異常摩耗が生じ、事故につながる恐れがある。新車は無鉛対応車に変わったが、未対策車がまだたくさん走っていた。

当局は、レギュラーガソリンもハイオクガソリンも、それぞれ4エチル鉛入りと無いものの2本立てで売るように指示した。しかしスタンドにはタンクが2つしかない。

私は石油連盟の対策会議で、日本石油を代表して加わり対応策を提案した。未対策で鉛の必要なレギュラー使用車にも、4エチル鉛入りのハイオクを売るという案だ。

これしか方法は現実的には無いので通った。結果的に、従来5%程度しか売れなかった高価なハイオクの販売比率が一気に約80%に高まり、一過性だが業界は潤った。

当時、本社の販売部長は、大阪支店で尊敬していた松浦達也さんだった。思う存分、働かせてくれた。

係長時代に特に忘れられないのは初めての海外出張だ。71年、出光興産の加藤正常務を団長とする約15人の欧州石油事情調査団に参加した。

日本では原油価格が上がっても、行政指導もあって末端になかなか転嫁できない。欧米は簡単に転嫁するが、国民はどう受け止めているのか、調べるのが目的だった。

当時海外に行くのは大ごとで、社内からせんべつをもらい、父や家族が空港に見送りに来た。初めてロンドンの地を踏み、カルチャーショックを受けた。庶民の家もれんが造りで歴史の重みを感じたものだ。ミュンヘンのビアホールでは加藤団長がご機嫌で軍歌を歌い出す。ドイツ人が「日本は昔、ともに戦った仲間だ」と唱和し、大いに盛り上がるという一幕もあった。

現地調査で、石油は重要な物資だから、値上がりしたら転嫁はやむを得ないとの意識が消費者に浸透している点を知り、日本との違いを感じた。石油ショックが襲ってきたのはそれから間もなくだ。

(JXホールディングス相談役)

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