渡文明(1)新社会人

配属先に最初は落胆
初任地・新潟、貴重な4年間

私がJXホールディングスの前身の日本石油に入社したのは1960年である。もう半世紀あまりも前のことだ。

今年も社会人になった若者たちは、緊張しながらも希望に燃えているだろう。しかし期待は現実にしばしば裏切られる。実際の会社にがっかりする人も少なからず出るに違いない。

でも、くよくよしなさんな。人生なんて初めから自分の思い通りにいくわけがない。壁を乗り越え切り開いていくところに面白み、醍醐味がある。深刻に見えても、気持ちを切り替えて前向きに臨めば、道は開ける。そんな話をつづっていきたい。

3月半ばから約1カ月の新入社員研修の最終日、配属が発表された。五十音順に建内保興勤労課長が読み上げる。建内さんは後に社長、会長になり、石油業界でもドンとして知られた人である。

事務系の勤務地は東京や大阪、名古屋がほとんどである。東京生まれの私は、慶応義塾大学を出て盛り場といえば銀座しか知らない。大阪や名古屋も新鮮でいいなと思いながら聞いていた。

ところが「渡文明、新潟製油所勤務を命ずる」。予想もしなかった。新潟は日石発祥の地だが、縁もゆかりもない。しかも製油所なんて、事務屋にとって島流しに遭うようなイメージだ。

研修は横浜市の金沢八景にあった研修所で合宿して、毎朝、ラジオ体操と海岸までのマラソンで始まる。営業や経理などの幹部や役員が来て、仕事の流れや心構えを講義する。野球の応援歌も習った。

私も含めて日石だけを志望した者はいなかったと思う。まだ学生気分が抜けずにいたのが、約1カ月、日石イズムを徹底的にたたき込まれた。同期のきずなもできて、いざ、それぞれの任地に行こうという時に、がっくりである。

何で新潟くんだりまで飛ばされるのか。東京勤務の連中はニコニコである。研修を担当した人事部の人には、私のできがよほど悪く見えたのだろうか。

新潟に向かう列車が出る上野駅は当時、集団就職の列車が着く駅で、どことなく哀調を帯びていた。同期生数人と親戚の何人かに見送られて、独り汽車に乗った。

清水トンネルを抜けると風景が変わる。川端康成の「雪国」にある「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が脳裏に浮かんだ。4月も半ばだというのに、山々には雪が残っていた。雄大な越後平野の田んぼは田植え前なので荒涼として、余計に寂しげに見えた。

新潟駅では、勤労課の前園係長と1年先輩の芦沢さんが旗を持って出迎えてくれた。「ご苦労さん」と連れて行かれたのは、製油所を素通りして、近くの小さな居酒屋である。三々五々人が集まってきて、いきなり歓迎会である。

「よう来た。飲め飲め」。銀座でハイボールをちびちびやっていたのが、日本酒をがばがば飲まされたからたまらない。たちまち嘔吐(おうと)し、ぶっ倒れた。目が覚めたら、寮のベッドの上だった。

起き出して寮長にあいさつしたが、ひどい二日酔いで頭がずきずき痛んだ。製油所は8時始業で、かろうじて出勤した。

歓迎会で手荒い洗礼を受けて始まった新潟製油所での4年間が、私にとって掛け替えのない経験になるとは、その時はわかるはずもなかった。

(JXホールディングス相談役)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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